「友人たちよ、友人などいないのだ」とは、アリストテレスが死に際して言った言葉らしい。
「友情を疑う」とは、「友情」に対して世間が抱いている甘美な思いを逆手にとった、うまいタイトルだ。
友情について、キケロ、モンテーニュ、モラル・センス学派(シャフツベリ)、ルソー、ミシュレ、カントという哲学者たちが何を言ってきたかを、時代順に紹介する。それを、「友情など存在しない(少なくともいまの日本には)」という著者の主張でサンドイッチした構成。
友情の哲学史のパートは面白い。時代状況によって、友情とは何かという認識が刻々と変化していった様子がよくわかる。
紀元前のローマで、キケロは論じる。「友人関係は人との公的なつながりであって、友情は公共のルールに従わねばならない。ところが人はしばしば『友人のために』犯罪を犯す。友情は公共のルールを脅かす危険な存在である」
仲間がいなければ、誰もそのようなことには手を染めたりしない
それから1600年ほど後に、モンテーニュが反対のことを言う。「友情は説明することのできない宿命的な力で、至上の価値をもつ。友人はもはや自分の『分身』であり、仮に友人が反社会的行動をとるとしても、それを肯定することが当然である」
私が自らに対して行う奉仕について自らに感謝することはできない。同様に、真の友人たちの結びつきは、本当に完全であるから、そのような義務の感情を彼らから奪う…
さらに200年ほど経って、シャフツベリなどに代表されるモラル・センス学派がすごいことを言う。「友情はわれわれに先天的にそなわるものであり、人はそれに抵抗することは難しい。また、友情は対象を選ぶことができない。そのため、万人が万人の友人とならざるをえない」
実際、私には、一度も友人と呼んだことがなく、一度も友人と呼ばれたこともない者に人間という名を認めることはほとんどできないでしょう。 - シャフツベリ『モラリストたち』
いやー、極端でしょ(笑)。「友情」は結局、最後にはどうなってしまうのか?テレビ討論で、哲学者たちがあーでもないこーでもないと言い争いしているかのような展開がその後も続きます。
一方で、この本の著者自身も、負けずに極端だ。この本を読んだら、自らの周囲に本当の意味での友人などいない、比喩的な意味でそう呼べる存在がいるに過ぎないことがわかるだろう、と「はじめに」でいきなり宣言してしまう。
でもこれがどうも、最後まで読んでも納得しがたい。たとえば著者は、「利害の一致しない競争相手は少ないほどいいはずであるから、学生、スポーツ選手には、同級生やライバルで『友人』と呼んでいい人は、本当の意味ではいないはず」と主張するのだけど…。
「本当の意味」の範囲が、狭すぎるんじゃないか?
「本当の意味での友人」とは、哲学者の一致した定義によれば、「理想的な対人関係を成り立たせる相手」らしい(これはまあいい)。そしてそうした関係は、「付き合うこと自体に価値があるような自足的な付き合い」だそうだ。
理想が高すぎるんじゃないか?
じっさい、「多少の利害衝突があったとしても、自己の力を高める過程でお互いを認め合う」というようなケースも、理想的な関係だと言っていいんじゃないのかなあ。こういうライバルに、親しみと尊敬という引力と斥力をバランスよく感じる(カント的な友情)ことだって、現実にはあるだろう。少しでも利害の不一致があったら、即「友人失格」ってのは現実離れし過ぎだ。
哲学って、いつもそんな現実離れした説教ばかり並んでるので、門外漢からつまらないって思われるんじゃないでしょうか。なんか私も感想書いててだんだん楽しくなくなってきたよ(笑)。歴史上の哲学者は、その時代に応じた「友人像」「友情観」を描き出してきたのだから、著者もこの時代に生きる者として、既成の概念を超え、現代の新しい「友人像」「友情観」をポジティブに提案してほしかった。
哲学は、ただ生きるには不要だけど、より良く生きるためには有用だと思う。素直に感心するのもいいし、何言ってんのこの人と思うのもいい。この本は私には両者のブレンドみたいな感じだった。
[MEMO]------------------------------
*最終章の著者の主張も、なんか駆け足でわかりづらい。「友情」の否定のはずが、いつのまにか「善意」を批判する話に強引にすり替わっている気がする。結局、筆者は世俗的な意味での「友情」「友人」に価値を見出さない人なのかな。以下のように述べた、ラ・ロシュフーコー的な人かもしれない。
人間たちが友情と名づけたものは、社交、たがいの利益の調整、世話の交換にすぎない。結局のところ、それは一つの取引なのであって、そこでは、自己愛がいつも何かを手に入れることを目指しているのである。 - ラ・ロシュフーコー『箴言集』
*授業なんかでは、ルソーは、人間にとって好ましいのは他人と離れ孤立してひとりで生きる「自然状態」であるとした、と習う。無味乾燥な思想だ。ところが、彼が極度に被害妄想をもっていて、自分に親切にしてくれる人にやたらと疑心を向けていたことをこの本で知って、なんか俄然実感が湧いてきた(笑)。
人間における社会的な傾向は、弱さから生れる。
*フランス革命時の「友愛化」のやり方は、浦沢直樹「20世紀少年」の「ともだち」を連想させる。ジャコバン派は、政権と利害の一致しないものは裏切り者であると見なし、反革命分子を容赦なく粛清した。この粛清を「友愛化」と呼んだのだ。「友愛か死か」というのはジャコバン派の標語である。
*サラ・ウォーターズ「半身」という小説がある。ひとつもグロテスクな描写がないにも関わらず、この話を思い出すたびに心が冷える。未読の方は、ぜひ一度読んでみて下さい、その結末まで。
モンテーニュが友人ラ・ボエシーを失ったことを表現した言葉を読んで、この小説のことを連想した。
すでにいたるところで二人の片割れであることに慣れてしまっていたから、今では自分が半分になってしまったように思われるのである。
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