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2007年8月

2007年8月31日 (金)

今月のベスト&リスト(2007年8月)

2007年8月に読んだ本のベストは以下の通り。

◆ベスト 【フィクション】   「団地ともお 10巻」 小田扉

団地ともお 10 (10) (ビッグコミックス) 団地ともお 10 (10) (ビッグコミックス)

著者:小田 扉
販売元:小学館
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 この8月はちょっと感想少なめだった。でもそれ以外にもいろいろ読んではいるのだ。「感想を書くほどでもない」と判断したものは記録に残ってないということ。その意味で、まずここに感想を書いた本たちは、気に入ったものばかりだといえる。さらにその中で今月はこれが一等とは(笑)。自分でも驚きだぞともお。

◆ベスト 【フィクション以外】   「輸入食品の真実」 小倉正行

食品のカラクリ6 輸入食品の真実!! (別冊宝島 1458) 食品のカラクリ6 輸入食品の真実!! (別冊宝島 1458)

著者:小倉正行
販売元:宝島社
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 この本はヒマなときにパラパラ見返して、スーパーで安い外国産にばかり手を出しそうになる自分を戒めたい。食料自給率を押し下げてる要因はいろいろあると思うが、その根っこにあるのは、やっぱり国民ひとりひとりの購買行動・食行動だと思う。

 上記の作品も含めて、2007年7月の感想リストは以下の通り。

どちらかがズレた―「ショート・プログラム3」

逆転に次ぐ逆転が見たかった―「議論のウソ」

恐いものは、恐いのだ―「顔は口ほどに嘘をつく」(第1章~第4章)

ベストがしぼれないよともお―「団地ともお 10巻」

闘犬は泣くか―「医龍 14巻」

あほな…の連発必至―「輸入食品の真実」

インモラルでも、信じたい―「電波の城」

どなたか、読んで聞かせてください―「アラビアの夜の種族 第二部」

これが男子小学生のスタンダードだ!―「おやすみプンプン」

「防げる」と「防げた」は違う―「自殺の心理学」

四重メタ構造、堂々の完成―「アラビアの夜の種族 第三部」

サスペンス脳優位がもたらす悲しみ―「アヒルと鴨のコインロッカー」

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2007年8月26日 (日)

サスペンス脳優位がもたらす悲しみ―「アヒルと鴨のコインロッカー」

 「ミステリ脳」「サスペンス脳」ってのがあると思うのだ。もちろん比喩的な意味でだけど。

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫) アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

著者:伊坂 幸太郎
販売元:東京創元社
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 どんな推理小説も何らかの「謎」を内包しており、読者はそれを楽しむわけだ。その「謎」には大きく分けて「ミステリ的な謎」「サスペンス的な謎」がある。

 前者は「完全な密室でどのように犯行が行われたか」とか「この連続殺人が可能だったのは誰か」といった謎で、読後にその「構造」を俯瞰しながら、「なるほどここに伏線があったのか」「このミスリードを誘う仕掛けはうまい」などと感心して楽しむ。ともすれば、読んでるうちからこうした「構造」の俯瞰をおっ始めてしまい、前のページを読み直したりして、一種の探偵役になったりもする(笑)。

 一方、後者は「主人公はこの窮地を切り抜けられるのか」とか「二人の関係はどのように決着するのか」といった謎で、読んでいる間、作者が用意した「展開」に沿って一喜一憂して楽しむ。

 で、「ミステリ脳」の持ち主は、「ミステリ的な謎」を嗜好し、楽しむことが「できる」。「サスペンス脳」の持ち主は、「サスペンス的な謎」を嗜好し、楽しむことが「できる」。なぜ、「できる」と表現するかというと、どちらかの脳に偏った読者は、きっと反対側の謎を楽しめないと思うからだ。

 とくに確かな根拠があるわけじゃないけど、特定の本に対する周囲の知人の感想を聞いたりネットの言説を見てると、「楽しむポイントが恐ろしくバラバラだなあ」と感じることがあって、そこには一貫した嗜好の隔たりがあるように見受けられる。それはすなわち、個人の中で「ミステリ脳」と「サスペンス脳」のどちらが優位かの違いじゃないかと愚考する次第。

 前置きが長くなった。本作は、「現在」と「二年前」、それぞれに起こる事件を交互に描写して、背後に隠された奇妙な繋がりを解きほぐしてゆく物語だ。

 詳しいネタバレは避けるが、本作の「ミステリ的な謎」は実に鮮やか。「現在」の主人公が最初に名乗ったときの「言いにくい名前」とか、「鳥葬」のこととか、後から読み返してみると、本当にうまくパズルのピースがばらまかれていたことがわかって感心する。

 で、「サスペンス的な謎」についてだが、こちらも恐ろしく質が高い。これを読んでる途中に出かける用事があったんだけど、早く帰って続きが読みたいと気になって気になって(笑)。この作者のリーダビリティはやっぱりすごい。

 だけど…。

 ちょっと主人公側の人々の結末が悲しくてね。読後にそれが何よりも気になり過ぎる私は、ああやっぱり「サスペンス脳優位」だなあ、と実感した次第。

[MEMO]------------------------------

*ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」にあったような、知性と感情のトレード・オフ的なイメージで、「ミステリ脳」と「サスペンス脳」を説明することができるかも。どっちかが発達し過ぎると、やっぱりもう一方の謎には注意が向きにくくなると思う。

 少し意味合いは違ってくるが、「ホームズ脳」と「ワトソン脳」とか、「作者・評論家脳」と「読者脳」という分け方もアリかもしれない。最高なのは、どっちの脳もフル活用して楽しめることだけど、これがなかなか。

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2007年8月22日 (水)

四重メタ構造、堂々の完成―「アラビアの夜の種族 第三部」

 ナポレオン率いるフランス軍がエジプトへ、首都カイロへと迫り来る。夜を継いで語られる救世主の物語は、果たしてエジプトを救うのか?十重二十重に織り込まれたアラビア冒険絵巻の最終巻。

アラビアの夜の種族〈3〉 (角川文庫) アラビアの夜の種族〈3〉 (角川文庫)

著者:古川 日出男
販売元:角川書店
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 ズームルッドが語る物語の、胸がすくような見事な大団円に、正直驚いた。サフィアーンとファラーの和解、アーダムの成仏、ドゥドゥ姫との結婚と、懸案事項はすべて清々しく決着した。まさかここまでさわやかな結末を迎えることができようとは。人格の入れ替わりという大胆な仕掛けを披露し、魔法書や霊剣といった伏線を巧みに生かしきった作者の力量に感服した。

 …とはいえ、実はいま私は感想を書いてて居心地があまりよくない。それは、「第一部」の感想でも書いた、この作品のメタ構造に関係してのことだ。

 そこで述べたように、この作品は凡百のクリエイターなら手に余るような四重のメタ構造になっている。①ズームルッドの物語と、②アイユーブの物語を、最後一点に収れんさせるくらいなら誰でも思いつきそうなものだ。ところが、③英語版の底本(「The Arabian Nightbreeds」)を邦訳しているという設定と、④訳者から読者に対する呼びかけまでも、ひとつの話にまとめてしまうというのは、余程の覚悟がないとできないことだろう。

 この作者は、それをやりきってしまっているのだ。その胆力に呆れるしかない。

 だが、そもそもThe Arabian Nightbreeds」なる本は、実在するのか、しないのか?私は実在しないと思って、この四重のメタ構造を完成させた「作者」の古川日出男に感心しているのだが…。ひょっとして、私が単に無知なだけで、実在したらどうしよう。もしそうなら、まるで見当違いのことを書いてるってことになる。くわーっ、居心地悪い(笑)。

 「じゃあ今すぐ調べりゃいいじゃん」とみなさんお思いでしょう。それはもっともです(笑)。

 が、このブログでは、感想を書く際、他の書評とかを極力見ないというルールを、勝手に立てている。今回のような場合には、Webで下調べした方が楽だしまっとうな感想を書けるに決まってるのだが、一度このルールを破ってしまうと、なし崩しに後退していって、自分の頭でウンウンうなることをすぐに止めてしまいそうな気がする。ということで、あえて自分で枷をはめて、不自由な状況を作っているのだった。

 ここで思いだすのは、清水義範「主な登場人物」という短編。

 この短編は、チャンドラーの「さらば愛しき女よ」を読んだことがない作者が、外国作品によく付いている「主な登場人物」の項だけを頼りにして、そのストーリーを推理するというものだ。もちろん、各人物に一行程度のあんな説明だけでは、原作を大きく外れたムチャクチャなストーリーにしかならない。そんな作者の四苦八苦を楽しむという趣向だ。

 で、その短編を清水義範はこう締めくくる。

さて、私はどうするか。これから、レイモンド・チャンドラー作「さらば愛しき女よ」を読むのである。

 私もこの感想を書いたら、「The Arabian Nightbreeds」が実在するのか、それとも作者一流のフィクションなのか、やっとWebで調べることができる(笑)。

 それにしても、こういう行動を読者にうながす時点で、四重メタ構造のいちばん上の階層で成功しているとつくづく思うのだ。

2巻の感想

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2007年8月17日 (金)

「防げる」と「防げた」は違う―「自殺の心理学」

 自殺者が減らない。いったい、自殺は防げないのだろうか?

 これについて、「自殺する人はどうしたってするのだから仕方ない」という意見を聞くことがある。それは一面では正しいが、別の面からいえば間違いであると思う。

自殺の心理学 (講談社現代新書) 自殺の心理学 (講談社現代新書)

著者:高橋 祥友
販売元:講談社
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 私の周囲でも自ら命を絶った人が何人かいる。それなりのトシになったら、近しい人間の自殺を、多かれ少なかれ誰もが経験していると思う。

 そんなとき、「こうなる前にどこかで止められなかっただろうか」との無念が胸をよぎらない人はいないだろう。と同時に、「止めようと思って止められるものなのだろうか」という疑問も浮かんでくるに違いない。

 自殺問題に取り組んできた精神科医の手になる本書は、「自殺は防げる」というメッセージで全体が貫かれている。「自殺する人はどうしたってするのだから仕方ない」という弱腰は微塵も感じられない。専門家はそうやって頼もしく構えていてほしいものだ。

 一方、われわれ一般人はどうすればいいか?もし身近な人に「死にたい」と打ち明けられたら?

 本書の内容からすると、基本姿勢は「軽視も諦めも禁物」という感じだと思う。

 まず、自殺を口にする人ほど死なない、といった「軽視」は絶対によくない。自殺のほのめかしや、別れの用意ともとれる行動は、その後の自殺に高い確率でつながるという。先日読んだ野村進「救急精神病棟」にも、乱雑な部屋に引きこもっていた女子高生が外出して行方がわからなくなったとき、部屋が見違えるほど整頓されていて、数時間後、飛び込み自殺の報が入ったというエピソードがあった。(P385)

 すなわち、本書にあった以下の一節のように考えるべきなのだろう。

自殺の危険を過小評価するよりも過大評価するほうが実害は少ないのです。「自殺の危険がない」と誤って判断したために取り返しのつかない事態が起きるほうがよほど恐ろしいのです。(P55)

 誰かに「死にたい」「自殺したい」と言われたとき、自分は彼・彼女に選ばれてその言葉を聞いているのだ。そう思えば、その言葉たちを軽々に扱うわけにはいかなくなるだろう。

 もうひとつ、こちらからの働きかけは無駄だ、といった「諦め」も絶対にしてはいけない。著者は、自殺の危険が高い人でも確固たる死の覚悟をもっている人はほとんどいないとしている。むしろ、生と死の間で心が激しく動揺しているのが普通だ、と。また、自殺と密接に関係する精神的問題(とくに「うつ」)は、治療することが十分に可能であることも述べている。すなわち、こちらの働きかけで「自殺を思いとどまらせる」余地は確かに存在するのだ。

 じゃあどういう風にわれわれは接したらいいか。専門家の立場からいろいろなアドバイスが述べられているが、印象に残ったものをピックアップしておく。

  • とにかく話を聞く(傾聴):カウンセリングの技法だ。下手に助言などせず、とにかく共感を示しながら話を聞く。これがまず第一歩。
  • 自尊心を高める:自殺の危険が高い人は自尊心が不当に低い傾向にあるため、自分の価値に気付かせてあげることが大事だ。
  • あいまいさに耐える能力を高める:自殺を考える人は、思考が短絡的だ。「仕事がうまくいかない→死ぬしかない」などという理屈はおかしいわけだ。「うまくいってる部分もある」「うまくいってなくても休んだり他人に任せたりと他の選択肢がある」「もう少し結果が出るまで待ってみよう」という柔軟で曖昧ともいえる可能性を示したい。
  • われわれもひとりで抱え込まない:自殺の話は、聞かされる方にも大きな精神的負担となる。専門家や家族の助力をあおぐように方向付けることも、自殺を防ぐ有効な手立てだ。
  • アルコールは飲ませない。薬や病院の効果が出るのは少し時間がかかる。

 以上、私も今後こうした人と接する機会には、これらの心がけを忘れずにいようと思う。

 ただそれでも、最初に述べたように、「自殺する人はどうしたってするのだから仕方ない」という言葉には、私は一面の正しさがあると思う。

 自殺予防の観点からいえば、この言葉は間違いとして扱わねばならない。だが、大事な人を自殺で失くした人には、この言葉はいつか「真実」として心に広がってゆくべきだ。そう思わなければ残された人が救われないということが、間違いなくある。

 将来の自殺は「防げる」と思え。だが、過去の自殺は「防げた」と悔やむな。これが鉄則だろう。

[MEMO]------------------------------

*社会学の意識調査では、世界の人々は自分の国こそが世界の中でもかなり深刻な自殺の問題を抱えていると思っているらしい。日本人もそういう傾向があると思うが、実際のところは自殺率は世界で10位前後だ。本書には1980年代のWHOのデータが載っているが、2004年の同じデータを見てもこの順位はだいたい変わらない。

*自殺報道の影響などで後追い自殺が起こる「群発自殺」は、青少年に多い。日本での代表例は、いじめを受けた中学生やアイドル・岡田有希子の自殺後に発生したケースだろう。古くは18世紀末、ゲーテ「若きウェルテルの悩み」の主人公が自殺する描写を真似て、同じ服装と方法で自殺する若者がヨーロッパ各国で多発したという。そのため、群発自殺の別名は「ウェルテル効果」というらしい。

*この2つの事例は、おそらく「マスコミ」という要素でつながっている。後者の「群発自殺」はマスコミの影響がわかりやすいが、おそらく前者の意識調査も、マスコミの声高な自殺報道のあおりを受けているのではないか。

 仮にそうだとすると、自殺を報じる際のマスコミにかかる責任は非常に重いといえる。本書でも指摘されているが、自殺をいたずらに美化したり非難したりしない、自殺方法を詳しく報道しない、などのガイドラインが必要だろう。

*この本は、1999年第1刷発行とやや古い。2006年10月には、自殺問題の深刻化を受けて「自殺対策基本法」が施行されている。これ以後に刊行された本をまた読む必要があるなー、と感じた。

*(2007年9月7日追記)内閣府の世論調査では、「自殺する」と言う人は死なない、と多くの人がやはり思っているようだ。また、自殺には前触れがない、という誤解もはびこっているとの結果も出ている。本書に書かれていたようなアメリカの「自殺予防教育プログラム」は、子どもたちだけでなく、大人がまず受ける必要がありそうだ。

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2007年8月12日 (日)

これが男子小学生のスタンダードだ!―「おやすみプンプン 1巻」

 明らかに変だけど、まっとうだ。単行本の帯に「シュール×リアリズム」とあるのは言いえて妙。

 表紙買いしたもので、この作者のマンガも初めて読んだけど、ちょっとハマってしまった。

おやすみプンプン 1 (1) (ヤングサンデーコミックス) おやすみプンプン 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)

著者:浅野 いにお
販売元:小学館
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 何がシュールかといえば、まず主人公・プンプンの造型だ。なんというか、コトリのオバQみたいな、やる気のない、でも可愛らしい外見をしてる。出てくる大人たちがまた、まともに見えてイカレてる(けどまとも)。さらに「神様」ってのが不可解すぎる。なんですか、あの明らかに写真のコピーをトレースしてるだけのにこやかな微笑みは?(笑)

 そして、最大にシュールなポイントは、随所にちりばめられたサイケな心象表現だろう。私がとくに気に入ってるのは、「あたしもプンプンが好き」と言われた後に目から飛び出したプンプンの光学的配列と、どうしようもなくこんがらがったプンプンの頭の中でうごめくカオスなタペストリー。最初はびっくりするけど、よく考えるとこれ以上的確で斬新な表現ってないかもなあ、と感じる。

 しかも、そうしたサイケな表現は、浮いてない。実は、ストーリーは至極まっとうで地に足がついており、シュールさはそれを効果的に見せるための装置に過ぎないともいえる。

 たとえば、プンプンは「弱気な男子小学生」の見事なリアルスタンダードだ。自分にあまり自信がない。でも唐突に大きな将来の夢を抱く。それは好きな女子の出現が引き金だ。その子は大人への扉をちらっと開けてくれる。扉の向こうには「自立」や「性」のカオスが見える。自分がこれまでの自分じゃなくなる予感がする。

 それは、この年頃の多くの男子小学生がたどる道だ。その道をとたどりながら、男子は、この世に「男」と「女」という自分とは異質な人々がいることを知る。私も、忘れていたリアルな感覚が記憶の底からよみがえってきて、「このマンガ、よくできてるわあ…」と感嘆してしまった。

 シュールな表現とリアルな物語、前者だけだったら私はあんまり好みじゃないんだけど、後者がよくできてるんですごく気に入った。1巻のラストも期待感たっぷり。ここでヒキですか、2巻購入決定ですなあ、という感じ。

[MEMO]------------------------------

*しかし、最後はホロ苦い結末にならざるを得ない気がして、ほんのちょっとブルー。この子らには幸せになって欲しいが…。

*プンプンパパ、プンプンママ、プンプンと来て、おじさんの名が「小野寺雄一」なのはなぜ(笑)。そして、愛子ちゃんがそのおじさんを目の前にしながら、プンプンの家を訪問してると気づかないのは、どういう訳か?

 ①プンプンみたいな生物は実はいっぱいいる、②他人から見るとプンプンたちは普通の人間に見える、③愛子ちゃんはずっと目を伏せてておじさんを見てなかった、の3つの可能性くらいしか思いつかない。う~ん…。こだわるとこじゃないのか。

*この作者に「ソラニン」という代表作があるのだけは知ってるけど、まったくの未読。これは読んでみる価値がありそうだ。

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2007年8月10日 (金)

どなたか、読んで聞かせてください―「アラビアの夜の種族 第二部」

 物語は、自在に飛躍する。こちらは振り落とされないよう食らいつくのに必死だ。

 奔馬のように時空をかけめぐる、波瀾万丈のアラビア絵巻の第2巻。

アラビアの夜の種族〈2〉 (角川文庫) アラビアの夜の種族〈2〉 (角川文庫)

著者:古川 日出男
販売元:角川書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 とにかく、自由自在だ。文体といいストーリー展開といい、あまりの勢いとうねりに、作者が考えながら書いてるのか疑わしくなるほどだ(笑)。

 文章については、もういっそのこと誰かに朗読して聞かせてほしい。専用ズームルッドとして(笑)。上手い人が読んでくれたら、リズムある短文の畳みかけにくらくらしそう。

 でも誰が適役かなあ。情熱的だけど冷酷で、妖艶だけど純粋な感じ。こんなニュアンスを出せる女性って、日本人で誰かいるだろうか…。

 ストーリーの方も、相変わらず見せ場の連続。第二部になってやや冗長に感じられる部分もあるが、依然、超常の設定を生かして作者の発想がこんこんと湧き出てくる。ファラーとサフィアーンの劇的な生い立ちを見せ、ドゥドゥ姫を艶やかに登場させ、地下宝物殿を不穏に出現させ、ジンニーアとアーダムの因縁を再度呼び覚ます。

 そして、2巻最後の第十四夜だ。そもそもこの巻って、どこで「次巻に続く」と締めてもいいってくらいクライマックスだらけなんだが、その中でも最大のところで切ってきた。

 いやー、3巻がすぐ手元にあって本当によかったです(笑)。

1巻の感想

3巻の感想

[MEMO]------------------------------

*ファラーが森を去るシーン。騙していたな、裏切ったな、おれは、おれは―、という叫びが、岩明均「ヒストリエ」で、エウメネスが奴隷として売られて町を出るときの叫びと重なった。深い絶望と恨みが感じ取れるシーンだ。

 そのわりに、その後の二人は対照的だ。ファラーの精神が暗黒に堕ちたのに比べ、エウメネスはやけにほのぼのしたところがある(エウメネスも仇に恨みを抱いてはいるが、それ以外の人にはそんなにヒドくない)。いったいこの先、ファラーはどうなるの?

*サフィアーンの性格は、環境でも矯められない遺伝の影響を考慮した設定になってる。彼は確かに悪い事をいろいろ行っていたけど、天性の気質の良さで、悪事オンリーだった養親たちも改心させてしまう(お父っつぁんは相変わらず偽医者をやったりもするが(笑))。

 前に読んだ「心はどのように遺伝するか」には、反社会的な養親のもとで育っても、実親にそうした傾向がなければ、子どもは反社会的行動に及びにくいとの研究があると書かれていた(P178)。サフィアーンの血は英明なる王の血。果たしてこの先、その血が彼を救うことになるのか?

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2007年8月 9日 (木)

インモラルでも、信じたい―「電波の城 4巻」

 見えてきた。物語の核が。

 北海道のFM局からテレビ局のお天気お姉さんとなった主人公が、困難な状況に負けず頑張る物語、…ってあらすじをまとめると全然違う話だ(笑)。

電波の城 4 (4) (ビッグコミックス) 電波の城 4 (4) (ビッグコミックス)

著者:細野 不二彦
販売元:小学館
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 この巻で、ついに主人公の天宮詩織の過去が詳細に語られる。ここに至って、物語はピカレスク・ロマンになった。

 今までは、主人公が北海道のFM局で何をやってきたのかが明らかにされていなかった。まず読者は、東京に出てきた主人公が不公平なオーディションや先輩女子アナのいじめを乗り越える様子を目にしてきた。当然、主人公に肩入れしちゃうわけだ。

 ときおり、主人公の恐い一面が出たり、過去の悪事がほのめかされるのを見たりもした。でも、すでに感情移入しちゃってるので、「まあそういう面もあるよね」「悪事って言ったって周囲の誤解なんじゃないの」とか思っていた。心の底で、「だってこんなにキレイでけなげな子がそんなことしそうにないよ」とかいう意識があったのだろう(←騙される男の典型(笑))

 それなのに、嗚呼それなのに。悪事はまごうことなき悪事で、主人公はまさしくピカロ(悪者)だったのだ。この感情の揺さぶられよう!一級品のストーリーテリングのなせる業である。

 だが、待ってほしい。細野不二彦の作品において、主人公がインモラルであることは珍しくない。「ギャラリーフェイク」の藤田しかり、「ダブル・フェイス」のDr.WHOOしかり、「ヤミの乱破」の桐三五しかり。枚挙にいとまがない。

 そして重要なのは、そうしたインモラルさの裏に、必ず彼らなりの信念と道義があるということだ。藤田は贋作を作る裏で、自分を追放した旧弊な美術界から本当に美しい作品を守ろうとしていた。Dr.WHOOや桐三五の背負っているものはまだ完全に明らかになってはいないが、非合法な行為の裏に、なにがしかの納得できる事情がある。

 要するに、細野マンガの主人公は、インモラルだがアンフェアじゃない。悪いことをしているとしても、読者の感情移入を許すだけの正当な理由を必ず併せもっている。

 それは、「電波の城」の天宮詩織にも、きっとある。それこそがこの物語の核だ。この巻でその核の一部が少しだけ明らかになった。

 核は、天宮詩織の家族をめぐる因縁だろう。おそらく、父に(あるいは母にも)非業の死を遂げさせた「仇」への復讐ではなかろうか。

 ヒントは、この巻の第32話での「一人きりの身寄り― 彼女の父親が倒れたころだった」という仁科の述懐、第39話での「私の父も昔、放送関係者だったんですよ」との主人公のセリフ(これは前にも出てたかも)だ。

 「天宮の背後の組織は強大です!」「地獄でさんざドブさらいをつとめたあげく、ヒョイと現世に還ってきた、そんな女さ!」とまで言われる主人公が、なぜわざわざテレビ局に入ってフツーに身を立てていこうとしているのか。それは、放送界にいる親の仇を突き止め、復讐するという目的があるからではないか。

 今後ここに、取材の行きすぎを咎められて不遇をかこつ事件記者と、海外から凱旋帰国した人気キャスター、それに天宮の背後に控える「組織」が、有機的に絡んでくるはずだ。面白くならないわけがない。

 未読の方は、ぜひ今のうちに!!

[MEMO]------------------------------

*1巻の頃は、個別のエピソードは面白いが、全体としてどこに向かうのかよくわからなかった。それがこの巻で物語の構図が見えてきて、俄然推進力が増した。今になってみると、茫洋とした出だしもみな計算だったことがわかる。物語の筋はかなり先まで考えられているようだ。

 この作者のこうしたストーリーテリングの力には、いつも感心させられる。個人的に好きな作品は多いのだが、物語の構成という点で質・量ともにケタ外れなのは、「東京探偵団」だと思う。一話から数話で終わる短編のエピソードが、その着想の大胆さ、展開の奇抜さ、見せ方の巧妙さ、オチの意外さに、どれをとってもうならされる。

 やや古い作品で、時代性に左右される側面もある。とくに、「昭和」を知らない人にはおすすめしにくい。だけど、「ギャラリーフェイク」あたりから入った人には、ぜひ一読してほしい傑作です。

Book 東京探偵団 (1) (MF文庫)

著者:細野 不二彦
販売元:メディアファクトリー
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2007年8月 8日 (水)

あほな…の連発必至―「輸入食品の真実」

 むかし、週刊金曜日の「買ってはいけない」をめぐって正しいの正しくないのと大騒ぎが繰り広げられたのを見てるので、私は基本的にこうした告発本は「構えて読む」ことを心がけてる。

 だが、AERAの特集だけでなく、週刊朝日やら婦人公論やら、各所で輸入食品(とくに中国産)の危険性が報じられているものの、反論は今のところ目にしない。

 やっぱり危険なのか?どのくらい危険なのか?

食品のカラクリ6 輸入食品の真実!! (別冊宝島 1458) 食品のカラクリ6 輸入食品の真実!! (別冊宝島 1458)

著者:小倉正行
販売元:宝島社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 輸入食品に対するそんな疑問にわかりやすく答えてくれるのがこの本だ。農産物、水産物から加工品にいたる様々な食品に関して、輸入事情と、危険物質をめぐる事件、さらに検査体制が紹介されている。たまたま書店で見かけて買ったのだが掘り出し物だった

 本書で発せられる警告は主に3つある。輸入食品の検査体制の不備と、原料原産地表示の不徹底、そして食料自給率の低さである。とりわけ、輸入食品検査のずさんな実態はたいへん驚きで、勉強になった。

 なんといっても、輸入食品に対する検査率が極端に低いことが衝撃的。2005年は、輸入届け出件数のうち、わずか10.2%しか検査されておらず、残り90%近くは無検査で流通しているという。

 しかも、国が主体となって行う検査(行政検査)のやり方がすごい。輸入された食品からサンプルをとった後、残りが市場に流れるのは一切止めずに、並行して検査をやるのだ(モニタリング検査という)。だから、その検査で危険物質が出てきても、すでに誰かが買って口にしてるということになる。

 あ、あほな…。きっと、トンデモない物質が検出されたけど、もう食べちゃった人に説明できないから、責任逃れで闇に葬られた検査結果とかあるんだろうなあ…(←懐疑主義)。

 こういう穴だらけの検査体制が原因で、最近また流行りつつあるO157による食中毒なんかも起きている。2001年に210名近くが感染した食中毒事件では、厚労省がひき肉についてしか検査しておらず、それ以外の輸入牛肉に潜んでいたO157が原因になったとみられる。(さらに、この後汚染された牛肉を摘発してからの厚労省の対応は、怒りを通り越して笑えるくらいヒドいので、ぜひ77ページをご覧ください)

 また、細菌よりさらに小さいウィルスに関しては、なんとびっくり、ノーチェックなのだそうだ。昨年猛威をふるったノロウィルスは、カキやはまぐりといった二枚貝に蓄積されることが多い。2001年に行われた研究によれば、中国、韓国、北朝鮮産の二枚貝81件のうち、12件からノロウィルスが検出されたという。道理で…(むかしカキを食べた夜に死にかけたことがある)。

 ウィルスは種類が多いから検査が難しいのか?それにしてもノロウィルスだけでも検査したらいいのに…と思う。ところが、ここで紹介される厚労省の担当者の言葉がまたすさまじい。もしノロウィルス検査を実施したら、輸入魚介類がほとんどすべて輸入できなくなるとの危惧がある、と。つまり、安全よりもまず輸入、ということよね。あ、あほな…(本日二度目)。

 輸入食品の検査体制は、残留農薬についてポジティブ・リスト制を導入し、一律基準で厳しく違反を網にかけるなど、進展している面もあるようだ。だが総じて、国民の「食の安全」を守るというより、輸入業者や食品会社といった「業界の利益」を守ろうという態度が透けて見えてしまう。

 なんといっても、国の輸入食品の検査を実際に行う食品衛生監視員は、2007年現在で全国に332人しかいないというのだ。これでも、1990年の99人からだいぶ増えてはいるが、輸入量がそれ以上に激増しているので、こんな人手不足じゃまったく追いつかないということだろう。

 この本では、監視員を3000人体制にすれば、検査率を7割まで引き上げられるとしている。今の10倍じゃん、この公務員削減のご時世に…とか思うが、しかし、これにかかる費用は年間300億程度だと。じゃあやろう。社保庁の莫大なムダを削ってこっちに持ってこよう!(笑)

 つくづく、国のため社会のためと言いながら、その実自分たちの周りのせまいせまいエリアの利益を優先して、そのためには国民をないがしろにしても構わない、という体質だよね。いい加減、こっちのモラルも吹っ飛ぶわー身捨つるほどの祖国はありや、ですよホント。

[MEMO]------------------------------

*まあしかし、BSE問題もしっかり片付いてないうちから牛肉輸入の全面的再開をアメリカが要求してきたり、そんなアメリカが危険性のある中国製品を輸入禁止にしたら中国がアメリカ産の輸入品を規制して反撃したり、国際関係の中で食の安全を確保しようとしても一筋縄ではいかないところがあるよなあ。

 結局これが、日本の食料自給率の低さから生まれる悲哀なんだよなあ。他国の機嫌をなるべく損ねないように、顔色をうかがいながらの事後処理に終始するという。

*ただ、輸入偏重の食糧事情の背景は現代の「飽食」にあるとか言われるけど、色々な食べ物を巧みに取り込み同化させる日本食の文化としての性質上、世界各地の食材を輸入することは否定されるべきではないと思う。

 問題は、安さこそ正義という感覚に下支えされた、「安価な飽食」がはびこっていることだろう。自分自身にもこれはあるからあまり大きなことは言えないけど、消費者がこの感覚を少しでも減らせば、とにかく安い外国産物を輸入しようという動きも減るはず。明らかに割高なコンビニが隆盛するわけだから、安さ以外の正義が認められる可能性だってあると思う。加えて原料原産地表示を徹底したら、日本の農業が広く儲かる時代が再びやっては来ないだろうか。

 二ノ宮知子「GREEN」とか、星里もちる「本気のしるし」とかには、「都市部から農への流れ」の可能性が描かれている。もっと農業を儲かるものにして、都会でくすぶってる若者に政策としてそういう道を示せないか、とか夢想するんだけど。

GREEN―農家のヨメになりたい (1) GREEN―農家のヨメになりたい (1)

著者:二ノ宮 知子
販売元:講談社
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本気のしるし (2) (ビッグコミックス) 本気のしるし (2) (ビッグコミックス)

著者:星里 もちる
販売元:小学館
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2007年8月 7日 (火)

闘犬は泣くか―「医龍 14巻」

 権謀渦巻く大学病院を舞台に、迫真の手術シーンと熱い人間ドラマを描いて快進撃を続ける医療マンガの14巻。文句なし。傑作。

医龍 14―Team Medical Dragon (14) (ビッグコミックス) 医龍 14―Team Medical Dragon (14) (ビッグコミックス)

著者:乃木坂 太郎,永井 明
販売元:小学館
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 この巻は、動脈硬化を起こした心臓に血管をつないで血行再建を図るという難手術の場面で、まるまる1冊使っている。そこでの最優先事項が、実になんというか大学病院らしい。

 最優先なのは、手術を成功させて患者を治すことじゃない。

 この手術の経過と結果を、教授選にどう活かすかだ。

 選挙で掲げた公約と自分自身の願望のあいだで揺れる霧島軍司。その葛藤につけ込む権力の鬼・野口教授。患者の命そっちのけ…とまではいかないが、話のメインは明らかに手術よりも二人の極限状況での心理戦だ。

「僕は、もう少し伊集院くんの話を聞きたいなぁ~~」

 …と言ったときの野口教授のダーティな微笑み!

「一度泣いた闘犬は、二度と闘えないと知っているのだ」

 …という霧島軍司の焦燥!く~、手に汗握る。

 そしてこの巻のもうひとつの見どころが、霧島軍司をめぐる木原助手と伊集院くんの薔薇色の三角関係だ。もう、木原センセイが哀れで哀れで…(笑)。

 でも、今後きっと主人公の朝田が活躍し、霧島は納得し、野口教授が苦虫を噛みつぶし、伊集院くんが成長を見せ、ついでに木原センセイが救われる展開になるのだろう。どうやったらそうなるかちょっと想像つかないのだけど、この作者の収まるべきところにシナリオを収める技は天下一品だ。

 ただひたすら、次巻が待ち遠しい。

[MEMO]------------------------------

「大学病院のウラは墓場」では、大学病院が最先端医療の追究をおろそかにすると、未来の医療が危うくなると警告されていた。そこで、大学病院は一般の病院と差別化し、高度な治療を受けられる場所として特化すべきだという意見が述べられていた。ただの風邪でも東大病院にかかる患者の話も紹介されていて、確かにそういう人が大挙して押しかけることで大学病院を疲弊させているという面はあるかもなと感じた。

 で、霧島軍司の標榜する「誰にでもできる手術」というのはどうなんだろう。大学病院でそんな簡単な手術ばかりやる意味はあるのだろうか(今回の心臓手術は決して易しいものではなさそうだけど)。ミスを避けていれば医療事故や訴訟は起こりにくくなり、医局は安泰かもしれないが、医学の進歩への貢献は皆無に等しくなるのでは。

 霧島軍司のような人が医学部の教授になろうとすることを、現実の医者はどう思うのか、ぜひ知りたい。

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2007年8月 6日 (月)

ベストがしぼれないよともお―「団地ともお 10巻」

 昭和50年代あたりをホーフツとさせる、団地暮らしの小学生ギャグマンガ、第10巻。これだけ単行本が出てて、いつも楽しんで読んでるはずなのに、この巻が今までで最高に面白かった気がする。不思議だ(笑)。

団地ともお 10 (10) (ビッグコミックス) 団地ともお 10 (10) (ビッグコミックス)

著者:小田 扉
販売元:小学館
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 とぼけた笑いと、さりげない情感がほんとに絶妙。いつまでも読んでられる。甘いものと辛いものを交互に食べると、満腹の限界を超えて食べ続けてしまうような感覚。

 その絶妙の甘辛さがこの巻は極まっていた。私的ベスト5は以下の通り。

◆ 第1話「最後の最後にきまったなともお」

 おおみそかの色んな番組の音声が奇妙につながっていくテクニカルな話。「メリーの血の色は、一体何色なのでしょう!?」「白です!白組優勝です!」…なんてバカな接続を思いつくんだ(笑)。

◆ 第6話「まだ魔法だったようだともお」

 「知らぬ間に内股!?」これだけで笑えるんだが、漢っぷりと乙女っぷりを交互に見せる最後の畳みかけがまたスゴい。

◆ 第8話「さて右か左か前か後ろかともお」

 ともお版「ラン・ローラ・ラン」みたいな話。忙しい週刊連載の中でこんな話をよく描ききるなあ。あとケリ子から借りてた本が、「魔法少女 忠臣蔵」(笑)。

◆ 第9話「ガツンと言ってやれよともお」

 この巻の表紙にもなってる、ダメ3人組が手をつないで人探しをするエピソード。秀逸なのは、あえて3人組にそれぞれケガをさせているところ。この設定のおかげで色んな可笑しさが生まれてる。夕陽の海を見てるシーンのしみじみとした間抜けさが絶品(笑)

◆ 第13話「珍しくとは失敬だよなともお」

 ともおの家でひっそり住んでたクモの、クールでエキサイティングな旅が実にいい。昔の男(というかクモ)が「奇跡だ!戻ってこれるなんて!」って言ってるけど、たぶんともおの父と祖父の家を宅急便で往復しただけだろう(笑)。

◆ 第14話「パンチとハングリーで最強だともお」

 3年間の努力がどんどん乗り越えられていく展開がすごい(笑)。「決勝戦だ!」…って続きが見たい~。

◆ 第15話「心は透けて見えないねともお」

 猫の達観ぶりがいい(笑)。団地の人の親切もいい。とぼけててやがていい話。

◆ 第16話「ぐんぐん伸びるよなともお」

 これはオチを言っちゃうわけにはいかんね。この巻最大の爆笑。

 …ベスト5と言っておいたくせに、8つある(笑)。いや、書いてる途中で5個に絞るのは無理だなとあきらめました。それ以外にも面白い話はあるし。

 あと、各キャラクターがまるで実際に生きて暮らしているかのような、細かい生態の描きぶりに、いつものことながら感心した。第6話にバイオ部で「大会近いんだぞ!」「大会ねーよ」というやりとりがあった後、第11話で黒板にひそかに「バイオ大会開くには」って書いてあるし(笑)。青戸さんは福引で当たった自転車で早速旅行に行くし。こういうのが隠れたギャグになってるところに、またお得感があるのだ。

ラン・ローラ・ラン ラン・ローラ・ラン

販売元:ポニーキャニオン
発売日:2003/08/20
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2007年8月 3日 (金)

恐いものは、恐いのだ―「顔は口ほどに嘘をつく」(第1章~第4章)

 なぜわれわれには、「感情」が備わっているのか?

 この心のはたらきは、もて余すこともあるけど、もし無くなったら毎日がつまらないだろうなと想像できる。人生の様々な出来事を豊かにしてくれるのは、それに付随する、うれしいとか悲しいとかいった感情だ。

 もし感情が生じなくなったら、私はもう映画も小説もマンガも見ないだろう。お金をいくら稼いだところで、食べ物以外に使い道が思い浮かばないに違いない。

 しかし、果たして「感情」はそうやってわれわれを楽しませるために存在しているのだろうか?

顔は口ほどに嘘をつく Book 顔は口ほどに嘘をつく

著者:ポール・エクマン
販売元:河出書房新社
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 本書は、感情とそれに伴う顔の表情の科学的研究で著名な心理学者ポール・エクマンによって書かれている。大きく分けて、前半は感情の普遍性や生得性についての議論、後半は悲しみや怒りといった個々の感情の引き金や特徴についての解説、という構成になっている。

 なぜ人には感情が備わっているのか、という疑問に答えるのは、前半のパート。感情は、われわれを楽しませるために存在しているのでない(現代ではそれも重要な役割だが)。エクマンは言う。

わたしたちの命を左右する出来事に素早く備えさせるために、感情が進化したという考えは、シンプルだが、核心的なものである。

 そう、感情は体の機能と同じく、進化の過程で人が生き延びるために発達したのだ。たとえば、われわれは何かをうれしいものだと感じたらそれに接近するし、恐いものだと感じたら回避する。すなわち、感情に従うことで、環境の中で適切な行動をとっている場合が多い。それができる個体こそが、長く生き延びられるのだ。

 そうして生き延びてきた個体が何万年もかけて世代交代を繰り返した結果、われわれは今ここで生きている。したがって、心の中には、遠い祖先のそうした感情面での反応のパターンが組み込まれているのだ。それは数十年や数百年で社会環境が急激に変化しようとおいそれと変わるものじゃない。

 このことをよく表すのが、文化の違いを超えた感情の普遍性だ。エクマンは、アメリカ、チリ、アルゼンチン、ブラジル、日本、果ては未開のパプア・ニューギニアでの感情と表情の関係を実証的に調べた。その結果、文化の違いを超えて、感情と顔の表現に共通性があることが明らかになった。このことは、その後世界各国での研究で裏付けられている。

 遠い祖先から少しずつ分かれた人類が、感情という心の機能で互いにつながっているのである。

 この感情の普遍性と密接に関わるのが、感情の生得性だ。われわれの感情で、生まれながらにして決まってる部分ってどの程度あるの?という問題。これに関連して、いつも不思議に思ってたのは、なんで自分はこんなにムシとかって恐く感じるのかなあってことだったんだけど、その理由がよくわかった。

 上に書いたように、われわれの祖先のうち、恐れるべきものを恐れてきた者が、生き残って子孫を作れる確率が高かったと考えられる。で、蛇やクモは危険なため恐れるべきであり、逆に花やきのこはとくに恐れる必要はない。現代人は、もしかしてその頃の感情を引き継いでいるのか?

 これを調べるためにスウェーデンの心理学者がおこなった実験が紹介されている。実験では、参加者に蛇や花などの刺激を見せるのといっしょに電気ショックを与えるようにした。すると彼らは、蛇やクモに対しては一度電気ショックを与えられただけで、その後はショックがなくても恐怖を示すようになった。ところが、花やきのこなどは恐怖を呼び起こすために何度も電気ショックを同時に与える必要があった。蛇やクモは、明らかに「恐がられやすい」のだ。

 だが、この実験がすごいのはそれだけではない。現在の環境の中にある人工的な「恐がられやすい」物体、たとえば銃や電気のコンセントについても調べた結果、これらの物に同様の恐怖を感じさせるためには、花やきのこと同じくらい電気ショックを併用しなければならなかったのだ。つまり、銃やコンセントのように、長い進化の中でごく最近登場したような物体は、たとえ現代において恐い存在だとしても、すばやくそれを恐怖するパターンがわれわれの心に組み込まれていないのである。

 つまりわれわれの中には、遠い祖先のもっていた感情のパターンが脈々と受け継がれているということだ。動物を使った研究では、ネコに会ったことがないネズミでも、初めてネコに会ったときに恐怖を示すとの結果が得られているという。生まれながらにして、恐がるべきものを知っているのである。

 いやー、面白い。そうした生得性とか普遍性とかがあるって言うと、文化とか個性とかを否定するのかって批判されたりもするが(本書にもエクマンのそんな経験が書かれている)、そうじゃないんだよね。だからこそ、人と人は育った環境を超えてわかりあえるのですよ。

 第5章以降は、また後日。

[MEMO]------------------------------

*研究を始めた頃には、エクマン自身、顔の表現が生得的、普遍的なものだとは考えていなかったという。これが興味深い。鉄ちゃん脳のところでも書いたけど…

行動科学で発見されるものは、科学者の期待に添うよりも添わなかったときのほうが信用できる。

そう、そうなのだ。予想と違ったわって正直に書いてある方が信用できるし、多くの場合、われわれの凝り固まった先入観を覆してくれるのだ。

*じゃあ感情における文化の違いはないのかっていうと、そんなこともない。たとえば、大切なものの喪失はすべての文化で悲しみを引き起こす。しかし、「大切なもの」の内容には文化的な相違がみられるという(P69)。

 あるいは、感情をどれだけ表情に出すかも、文化によって異なる。これを感情の表示規則といい、たとえば日本人は嫌悪感などの負の感情を人前で見せることを抑制することがわかっている。日本の社会では、暗黙のうちにそうした「規則」が共有されているのだ。

*感じている感情を支持する情報しか受け入れられないという、不応期(refractory period)の概念は面白いなあ(P94)。

 いったん感情が生じると、おさまりがつかないことはあるよね。たとえば友人が約束を破ったことに腹を立てた後、実は友人にも仕方のない事情があったと知っても、すぐに冷静になれず、しばらく不機嫌が続いたりする。あれって何でかと思ってたのだが、要するに怒りの感情による不応期に入ってて、それに合わない情報はきちんと処理できてなかったと考えると納得がいく。

*顔の表情だけでなく、声の質もまた、感情と対応する。まだ研究は少ないが、しぐさもそうだと考えられる。ただ、これらの感情表出は、コントロールできる程度に差がある。ある感情を感じたとしても、しぐさを抑えるのはいちばん楽だ。次に、顔の表情が制御しやすい。だが、声は(いったん出してしまったら)感情を隠すのは難しいらしい。

 著者は、こうした違いはもしかすると身体を制御するメカニズムと関係しているのかもしれないという。すなわち、われわれは身体の筋肉に対する制御が最も発達している。だが顔面の筋肉はそれに劣るし、発声器官の細かい制御なんて意識的には行えない。

 これが、声や顔に感情が出てしまうという原因なのではないか、という。非言語コミュニケーションでよく知られるメラビアンの研究にもつながる話だ。(メラビアンの研究自体は世間では拡大解釈され過ぎだけど…)

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2007年8月 2日 (木)

逆転に次ぐ逆転が見たかった―「議論のウソ」

 少年非行、ゲーム脳、携帯マナー、ゆとり教育。どれも色鮮やかで目を引くきらびやかなテーマばかりだ。

 で、「これらの議論に潜むウソを暴く!」みたいな内容を期待して読むと、途中まではいいんだけど、最後でずっこける。オチが「何がウソかって決めるのは難しいよね」という相対主義の権化みたいな結論になるので。

議論のウソ (講談社現代新書) 議論のウソ (講談社現代新書)

著者:小笠原 喜康
販売元:講談社
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 とはいえ、各テーマを論じる過程では、世間一般に流布されてるデータや言説が、必ずしも真実ではないということを、上手に指摘していて面白い。少年非行は増加しているとは言い切れないし、ゲーム脳は根拠薄弱だし、携帯電話は電車内でいちいち切る必要があるのか疑問だし、ゆとり教育が学力低下を招くと断定するのは早計だ。

 

 ただ、この内容で、「何がウソかって決めつけるのは難しい」という結論はないでしょう、と思う。いちおう前書きに、本書のメッセージとして述べられてはいるのだけど。

嘘を見抜く力は必要である。しかし、もっと必要なのは、そうした「嘘」であるかどうかという判断自体が場合によって変わりうるという、多様な次元で多様な結論がありうるという姿勢を貫く強靭さではないか。

 御説ごもっともで、まったく正しい意見だと思うんだけど、本書の各章はそういう主張を裏付ける構成にはあまり見えない。

 つまり、「ウソ」を指摘しっぱなしなのだ。その指摘が、別の見方をすればまた「ウソ」になることもある、という「逆転に次ぐ逆転」が起こる例がほとんど紹介されてない。第5章にさらっと触れてあるだけ。

 これで、「いろんな議論には多様な次元で多様な結論がありうる」っていうメッセージを送ってるのだとカッコつけられても、納得がいかない。「何でも鵜呑みにしたらイカンよ」というメッセージなら十分に納得できたけど。

 結局、色とりどりの華やかなテーマは、それぞれ楽しめはするが、ひとつひとつの掘り下げが浅かったと思う。著者の専門分野である教育学の議論を取り上げて、「多様な結論」が百出する様を見せてくれればよかったのに、とちょっと残念に感じた。

[MEMO]------------------------------

*なんか批判的な文になっちゃったなあ。でもプロフィールページに書いてるように、基本的に楽しかった本しか紹介しないスタンスなので、興味深く読んだのは事実。餅は餅屋というか、やっぱり第4章のゆとり教育批判に関する議論が、いちばん筆がノッていると思う。

 その裏返しで、ゲーム脳なんかはやや皮相的な突っ込みに終始してる印象。それこそ著者の大半のネタ元であるインターネットには、「斎藤環氏に聞くゲーム脳の恐怖」などの素晴らしいコンテンツがあるので、それと比べるとやや見劣りしてしまう。

以前読んだマイケル・J・フォックス「ラッキーマン」に、パーキンソン病を治すための脳手術を受けるシーンがあった。医者は、手術中は脳のニューロンが発する電気信号を微小電極でキャッチする必要があるが、それはとても弱く小さいため、部屋の照明さえ消した状態で手術をしなければならない、と説明する。

 じゃあ手元が見えないのでは、とマイケル・J・フォックスが尋ねると、手術室には壁一面の大きな窓があるから大丈夫、と言われるのである。

ローテクとハイテクの合体か、とぼくは思った。このとき以来、病院では携帯電話の電源を切ることにきちょうめんになった。

 「議論のウソ」では、技術革新により、病院内での全面的な携帯電話の使用禁止は不合理であると批判している。これを読んで、マイケル・J・フォックスは今どうしているのだろうとちょっと思った。

*223ページには、「本書でいいたかったことは、『正答主義』をやめようということに尽きる」とある。それは、誰かの作った正答をありがたがるだけの思考から脱皮せよってことなんだけど、実際問題、これは難しいよね。人はすぐに「正答」を知りたがる。

 昔、ナンシー関の本(どれだか忘れた)に、なんでクイズ番組って廃れないのかっていう文章があった。そこで挙げられていたののが、「正答を当てること自体が人にとって快感なのだ」っていう理由。それ読んでやっぱりこの人天才だと思った。

 つまり、好奇心に満ちた動物である人にとって、「正答」は快感をもたらしてくれる刺激であり、それをできる限り簡便に取り入れたいと思うのは、心の摂理なのだ。とすると、自ら迂遠な思考をたどるよりも、手軽に「正答」を得ようとするのは、ある意味仕方のないことといえよう。

(2007.08.07 追記)上記の記述はナンシー関の「超コラム」60ページにあった。「正解の絶対快楽性」というのが正確な表現。ウルトラクイズなんて嫌いだったのに、たまたま参加して第1問目に「正解です」と言われたとき、この上なくうれしかった、とのこと(笑)。

ナンシー関超コラム テレビCM編 ナンシー関超コラム テレビCM編

著者:ナンシー 関
販売元:世界文化社
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2007年8月 1日 (水)

どちらかがズレた―「ショート・プログラム3」

 あだち充は、短編の名手だと思う。短編集「ショート・プログラム」の1巻は特に好きだったが、それに限らず、長編マンガの中でのショートエピソードが抜群にうまい。

ショート・プログラム 新装版 3 (3) (少年サンデーコミックス) ショート・プログラム 新装版 3 (3) (少年サンデーコミックス)

著者:あだち 充
販売元:小学館
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 「ラフ」があだち充の最高傑作だと思っていると前に書いたけど、あの作品がその典型例。短いもので数話、長いもので1巻分くらいのエピソードが、どれも本当によくできてる。展開は意外性があるし、セリフ回しは気が利いてるし、叙情性も申し分ない。

 それなのに、去年出た短編集「冒険少年」は、(どの話も面白いんだけど)「これだ!」と感じ入るものがなかった。長編マンガも、最近は何となく追うのをやめてしまった(何となく、というのが実はいちばん根が深い)。要するに、あだち充と私の嗜好がだんだんかみ合わなくなってきたわけだ。

 それは、どちらがズレたんだろうか、と疑問に思っていた。青春を描き続けるあだち充の世界に、その年代を過ぎた自分が感情移入できなくなったのか。それとも、時代の移り変わりの中で、あだち充の世界の方が古めかしくなってしまったのか…。

 そこで、今回の「ショート・プログラム3」である。

 うむ、ウマい。楽しめる。

 でも、瑣末なことが気になる。ヒロインが訳もなく主人公に惚れすぎじゃないかとか、脇役がいいヤツすぎないかとか、そこで死ぬ意味あるのかとか…。

 これでよくわかった。ズレたのはやっぱり…。

[MEMO]------------------------------

*ズレたのはやっぱりどっちやねん、と皆さんお思いかもしれませんが、これはあれです、東野圭吾「どちらかが彼女を殺した」の趣向です(笑)。これは、容疑者が2人いるのだけど、そのどちらが犯人かを最後まで明かさず、作品中の手がかりから読者が推理してね、という異色の推理小説。アマゾンレビュー見ると、賛否両論(笑)。私は好きですが。

 なんで私の感想までそんなことをしてるのかというと、この「ショート・プログラム3」にある「天使のハンマー」という話が、「どちらかが彼女を殺した」を連想させたから。以下、ネタバレ含む推理。

 ここでの謎は、雪の中で死んでいるのが、島を出て挫折した俊道か、出世した心太かということ。はっきりとどっちだとは描かれていない。物証は乏しいので、登場人物の心理や作品の演出も考慮に入れて推理すると…。

【死んだのは俊道説】

  1. 倒れている死体の向きが、俊道の立っていた方向と同じ。
  2. 自分の惨めさを知られたくらいで幼馴染を殺すか?それなら、偶然とはいえ幼馴染を恐喝するほど落ちぶれた自分に絶望して自殺する方が自然ではないか。

【死んだのは心太説】

  1. 死体の着ている服が、心太が取り換えて着させられたジャンパーである。
  2. 心太が俊道を殺す理由はない。また、俊道が自殺しようとしても心太は止めるだろう。俊道がここで死ぬ可能性は低い。
  3. 現場には心太のカバンが落ちている。仮に心太が生きているとしたら、自分のカバンをそのままにしては行かないだろう。
  4. 最後の死体の場面につながるモノローグで、俊道とずっといっしょにいられることを願っているのは心太である。心太は子どもの頃、雪の降る中でそう願ったけれど、春が来て俊道は心太を置いて行った。最後、雪が止んでいるのは、同じことが再び繰り返されたことの暗示なのでは。

 こうやって比較すると、どう考えても心太が死んだとするのが有力だ。論理的に物事を考える人には、自明のことだったかもしれない。でも、感情的には納得いかないですよ、これ。あまりに救いがない。武論尊原作の「白い夏」もそうだけど、ちょっと人の命が軽すぎるんじゃないか。

*個人的に好きな話は、「下駄とダイヤモンド」(1999年)、「どこ吹く風」(1992年)、「メモリーオフ」(2000年)と、かなり前の作品が多い。「H2」も1999年までの連載だし、ちょうどこの頃がひとつの分水嶺なのかな…。

どちらかが彼女を殺した どちらかが彼女を殺した

著者:東野 圭吾
販売元:講談社
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