なぜわれわれには、「感情」が備わっているのか?
この心のはたらきは、もて余すこともあるけど、もし無くなったら毎日がつまらないだろうなと想像できる。人生の様々な出来事を豊かにしてくれるのは、それに付随する、うれしいとか悲しいとかいった感情だ。
もし感情が生じなくなったら、私はもう映画も小説もマンガも見ないだろう。お金をいくら稼いだところで、食べ物以外に使い道が思い浮かばないに違いない。
しかし、果たして「感情」はそうやってわれわれを楽しませるために存在しているのだろうか?
本書は、感情とそれに伴う顔の表情の科学的研究で著名な心理学者ポール・エクマンによって書かれている。大きく分けて、前半は感情の普遍性や生得性についての議論、後半は悲しみや怒りといった個々の感情の引き金や特徴についての解説、という構成になっている。
なぜ人には感情が備わっているのか、という疑問に答えるのは、前半のパート。感情は、われわれを楽しませるために存在しているのでない(現代ではそれも重要な役割だが)。エクマンは言う。
わたしたちの命を左右する出来事に素早く備えさせるために、感情が進化したという考えは、シンプルだが、核心的なものである。
そう、感情は体の機能と同じく、進化の過程で人が生き延びるために発達したのだ。たとえば、われわれは何かをうれしいものだと感じたらそれに接近するし、恐いものだと感じたら回避する。すなわち、感情に従うことで、環境の中で適切な行動をとっている場合が多い。それができる個体こそが、長く生き延びられるのだ。
そうして生き延びてきた個体が何万年もかけて世代交代を繰り返した結果、われわれは今ここで生きている。したがって、心の中には、遠い祖先のそうした感情面での反応のパターンが組み込まれているのだ。それは数十年や数百年で社会環境が急激に変化しようとおいそれと変わるものじゃない。
このことをよく表すのが、文化の違いを超えた感情の普遍性だ。エクマンは、アメリカ、チリ、アルゼンチン、ブラジル、日本、果ては未開のパプア・ニューギニアでの感情と表情の関係を実証的に調べた。その結果、文化の違いを超えて、感情と顔の表現に共通性があることが明らかになった。このことは、その後世界各国での研究で裏付けられている。
遠い祖先から少しずつ分かれた人類が、感情という心の機能で互いにつながっているのである。
この感情の普遍性と密接に関わるのが、感情の生得性だ。われわれの感情で、生まれながらにして決まってる部分ってどの程度あるの?という問題。これに関連して、いつも不思議に思ってたのは、なんで自分はこんなにムシとかって恐く感じるのかなあってことだったんだけど、その理由がよくわかった。
上に書いたように、われわれの祖先のうち、恐れるべきものを恐れてきた者が、生き残って子孫を作れる確率が高かったと考えられる。で、蛇やクモは危険なため恐れるべきであり、逆に花やきのこはとくに恐れる必要はない。現代人は、もしかしてその頃の感情を引き継いでいるのか?
これを調べるためにスウェーデンの心理学者がおこなった実験が紹介されている。実験では、参加者に蛇や花などの刺激を見せるのといっしょに電気ショックを与えるようにした。すると彼らは、蛇やクモに対しては一度電気ショックを与えられただけで、その後はショックがなくても恐怖を示すようになった。ところが、花やきのこなどは恐怖を呼び起こすために何度も電気ショックを同時に与える必要があった。蛇やクモは、明らかに「恐がられやすい」のだ。
だが、この実験がすごいのはそれだけではない。現在の環境の中にある人工的な「恐がられやすい」物体、たとえば銃や電気のコンセントについても調べた結果、これらの物に同様の恐怖を感じさせるためには、花やきのこと同じくらい電気ショックを併用しなければならなかったのだ。つまり、銃やコンセントのように、長い進化の中でごく最近登場したような物体は、たとえ現代において恐い存在だとしても、すばやくそれを恐怖するパターンがわれわれの心に組み込まれていないのである。
つまりわれわれの中には、遠い祖先のもっていた感情のパターンが脈々と受け継がれているということだ。動物を使った研究では、ネコに会ったことがないネズミでも、初めてネコに会ったときに恐怖を示すとの結果が得られているという。生まれながらにして、恐がるべきものを知っているのである。
いやー、面白い。そうした生得性とか普遍性とかがあるって言うと、文化とか個性とかを否定するのかって批判されたりもするが(本書にもエクマンのそんな経験が書かれている)、そうじゃないんだよね。だからこそ、人と人は育った環境を超えてわかりあえるのですよ。
第5章以降は、また後日。
[MEMO]------------------------------
*研究を始めた頃には、エクマン自身、顔の表現が生得的、普遍的なものだとは考えていなかったという。これが興味深い。鉄ちゃん脳のところでも書いたけど…、
行動科学で発見されるものは、科学者の期待に添うよりも添わなかったときのほうが信用できる。
そう、そうなのだ。予想と違ったわって正直に書いてある方が信用できるし、多くの場合、われわれの凝り固まった先入観を覆してくれるのだ。
*じゃあ感情における文化の違いはないのかっていうと、そんなこともない。たとえば、大切なものの喪失はすべての文化で悲しみを引き起こす。しかし、「大切なもの」の内容には文化的な相違がみられるという(P69)。
あるいは、感情をどれだけ表情に出すかも、文化によって異なる。これを感情の表示規則といい、たとえば日本人は嫌悪感などの負の感情を人前で見せることを抑制することがわかっている。日本の社会では、暗黙のうちにそうした「規則」が共有されているのだ。
*感じている感情を支持する情報しか受け入れられないという、不応期(refractory period)の概念は面白いなあ(P94)。
いったん感情が生じると、おさまりがつかないことはあるよね。たとえば友人が約束を破ったことに腹を立てた後、実は友人にも仕方のない事情があったと知っても、すぐに冷静になれず、しばらく不機嫌が続いたりする。あれって何でかと思ってたのだが、要するに怒りの感情による不応期に入ってて、それに合わない情報はきちんと処理できてなかったと考えると納得がいく。
*顔の表情だけでなく、声の質もまた、感情と対応する。まだ研究は少ないが、しぐさもそうだと考えられる。ただ、これらの感情表出は、コントロールできる程度に差がある。ある感情を感じたとしても、しぐさを抑えるのはいちばん楽だ。次に、顔の表情が制御しやすい。だが、声は(いったん出してしまったら)感情を隠すのは難しいらしい。
著者は、こうした違いはもしかすると身体を制御するメカニズムと関係しているのかもしれないという。すなわち、われわれは身体の筋肉に対する制御が最も発達している。だが顔面の筋肉はそれに劣るし、発声器官の細かい制御なんて意識的には行えない。
これが、声や顔に感情が出てしまうという原因なのではないか、という。非言語コミュニケーションでよく知られるメラビアンの研究にもつながる話だ。(メラビアンの研究自体は世間では拡大解釈され過ぎだけど…)
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