人は人を殺すことに耐えられるか―「手を汚すことなく「存置」「廃止」を叫んでいるあなたへ」論座2008年3月号
人が他人の生命を奪う行為を許さないのが、われわれの社会を成り立たせている法の原則だ。しかし同時にわれわれの社会には、死刑という制度が存在する。それは、一定の要件が満たされれば「国家」が人の生命を奪うことを容認する制度だ。「国だけが人を殺すことがある」というのが日本の法が決めた枠組みである、
でも、国というのはお化けのようにふわふわと勝手に活動してくれるものではない。様々な制度を実際に動かすためには、人が現実的に関わらなくてはならない。その意味で、死刑という制度もまた、やはり「人が人を殺す」仕組みなわけである。
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そんな当たり前のことに今更ながらはっとさせられた。論座2008年3月号の坂本敏夫「手を汚すことなく「存置」「廃止」を叫んでいるあなたへ 元刑務官からの報告」を読んでのことである。
これは、死刑がどのように執行されているのかについて、ある死刑囚への死刑執行命令が下ってから、死刑が執行された後の処置までを丹念に書いたものである。追いつめられた死刑囚の心理もさることながら、執行に関わる刑務官へとかかる大きな心理的負担がなんとも痛ましい。
印象的な事実がいくつかあった。たとえば、死刑囚が最後に立つ刑壇の床を開く(これで死刑囚は落下し絞首される)ためのボタンは複数存在する。
刑壇を下方に開き、死刑囚を地下室に落とすための電動ボタンが5個ある。そのうち一つを刑壇と接続させる。…
何番をつないだのかは、永遠の秘密だ。
誰の押したボタンによって死刑が執行されたのか、本人たちにはわからないようにする配慮である。
また、死刑執行当日、死刑囚を何も知らせずに舎房から連れ出さなくてはならない。これから死刑になると悟られては何が起こるか分からないため、普段の毎日とさも何も変わらないように「騙す」のである。当然その役目は、ずっとその死刑囚の処遇を担当した刑務官が負う。
刑務官は、死刑執行を待つ何年もの間、死におびえる死刑囚が正気を失わないように親身になってカウンセリングを何度も繰り返すそうだ。そうして自分を信頼してくれるようになった死刑囚を、その刑務官は最後の最後の場面で「騙す」のだ。
これは…なんという苦痛だろうか。実際に、良心の呵責に耐えかねて精神に変調をきたし、辞職した刑務官もいるという。
普通の人は、人を殺したという事実に耐えられない。それが電動ボタンを押すという直接的行為であっても、騙して処刑場に連れていくという間接的行為であっても、「人殺し」に荷担したという事実が精神を蝕む。
だから死刑を残すべきとも廃止すべきとも、ここでは言えない。死刑執行が刑務官にとって酷なことになっているということと、死刑制度の可否は、本質的には別の問題である。
しかし、現在の死刑執行方法が、科学文明を謳歌する先進国家にふさわしいものなのか、そのことに関しては深く深く疑問が残った。
[MEMO]------------------------------
*この論座の死刑特集は、浜井浩一「死刑という「情緒」の前に データで見る日本社会の実情」も、死刑の予防効果を考える上でとても興味深かった。
この中で、アメリカの学者が、統計上、死刑には抑止効果よりも殺人を助長する効果の方がはるかに大きいという分析を示したとか書かれていた。これはどういう分析なのかな。文中の別の箇所には、英米の犯罪学会においては、他の要因を統計的にコントロールすることが困難なので、死刑の犯罪抑止効果は科学的に確認できないとされているとあるのだが、それなら、抑止効果がないことを確認するのも難しそうなのだが。
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コメント
始めまして、お邪魔虫です。
刑務官の方々にそれほどの負担であるのなら、民間委譲も考えても良いのではありませんか・・・・
それをそれほど苦にしない方々も世の中には数多くおいでだろうと思いますよ。
お医者さんは、死の宣告もしますし、腹も切り裂きます。そして、失敗もしますし、説明もしなければなりません。
だからと言って逃げ出す人は少数でありましょう・・・
本意ではなくとも,慣れていただくよりないのです。
被害者の無念を晴らす意気込みで執行して欲しいと思います。
ただそれ相応の手当ては必要ではないかと思います。
何でも、人のやりたくない仕事は高給であってしかりです。
外国では、死体の処理作業は民間人に依頼しているところもあると聞きました。
喜んでやる人もいると思います。
裁判員制度も裁判官の方々が、死刑宣告することの辛さが一面ではあるからでしょう・・・
死刑宣告は、全員一致などふざけた申請です。
それではいつまでたってもまとまりませんね。およそ知恵があるとは思えません・・・
ただもう少し執行者も受ける側も楽に執行できる方法は考える必要はあります。
死刑の直接の執行よりも、死体の片付けの方が大変なような気がします。穴という穴から排泄物は出るであろうし、それをきれいに拭ったりして、それはそれは大変でしょう・・・
それを是正すべきですね。
犯人も安直に殺人を行っているのですから、結果のツケである死刑を重く考えることはありません。
これは自然が与えている自然な形なのです。
単にたまたま無から有の世界を体現しただけなのですから、また無に帰るのは、人間そのものの作りが悪かったというだけであって、作り直して出直して来い、ということでしかないのです。
代わりに終身刑を・・・という人もいますが、むしろその方が無駄も多く、意味を持たない植物的人間を表して、残酷です。
70歳~80歳くらいまでじっと刑務所で生きられたら、出してやるべきです。
その歳になれば個人差はあるでしょうが、欲というものの減少もあるのではないだろうか・・・・?
性犯罪なども、性的欲望を減少させる薬剤を用いるべきです。
大概、本人も欲望を抑えて欲しいと渇望しているものなのです。殺人や窃盗などもスリルを求める業のようなものがありますので、真剣に脳作用への研究を国家レベルで取り組むべきでしょう。
死刑を失くすにはそれ相応の補償を国家が代わりにやるべきでしょう。
交通事故との対比が違い過ぎます。
投稿: ara | 2008年3月10日 (月) 21時52分
コメントありがとうございます。
araさんが仰られるとおり、死刑を執行する刑務官の方にもいろいろいて、おそらくそれほどストレスを感じない(あるいは感じないようになった)人もおられるのでしょうね。また、民間への委託という方策もなるほどと思いました。
現行制度の最大の問題点は、死刑囚に毎日親身になって接してきた刑務官が最後の手を下さなくてはならないところにあるような気がしてきました。医者であっても、肉親は切れないと聞きますし(「医龍」というマンガからの知識で申し訳ないですが(笑))。
死体の処理が大変というのも同感です。坂本氏の文章にも、絞首のためのロープは直径3センチ弱と非常に太く作ってあるのだが、それはその太さでないと首が切断されたり体液の飛散がはなはだしくなって、遺体が無残になるからだとありました。
鳩山法相が「死刑執行が自動的に進めばいい」と言ったのとは違う意味で、人の手があまり関与しない自動化された死刑執行の装置作りが、現場の負担の軽減のために必要なのかもしれません。
死刑制度の存廃については、私は揺れ動いていますが、現時点では存置すべきだろうと考えています。
死刑廃止の立場で言われる「死刑囚がかわいそう」「死刑囚にも人権がある」的な論調には、その人の犯した罪とその被害者への視点が欠けている気がして賛同できません。これはaraさんが言われているとおりです。
また「西欧では死刑は廃止されている」という意見にも、死生観は国や文化によって異なるので右へならえする必要はないと思っています。
「死刑による一般予防効果はない」という話もありますが、では死刑を廃止して「人を殺しても絶対に自分は殺されることがない」という世の中になったらどうなるのか?と考えてしまいます。もしそうなったら、殺人を犯すことへの心理的障壁が低くなってしまうんじゃないかという危惧をぬぐいきれません。
被害者やその遺族の感情を考えれば、やはり応報刑に近い形がしっくりきます。その意味で、「殺人」に対してはやはり「死刑」という選択肢を残しておくべきでしょう。
araさんが言われるような、脳への作用によって、たとえば殺人やスリルを求める衝動を抑制するといった代替策は、実現の望みは薄いと思うのです。そうした衝動はおそらく単体で存在するのでなく、他の様々な欲求や日常の活動と関係しているので、その衝動を抑える薬は結局別種の社会不適応者を生むだけになってしまうのではないでしょうか。(ただ性犯罪者に対してだけは同感です)
また、終身刑のとらえ方ですが、「残酷」であるというのであれば、死刑と同等の量刑として十分に意味はあると思われます。人を殺したことをただ悔いながら生涯刑務所に閉じ込められて生きねばならないという状態は、確かに「罰」だといえるでしょう。それを「無駄」とは一概に言えない気がします。ただ、その囚人を養うための費用や労力をコミにすれば、コストパフォーマンスにはやっぱり疑問符がつきますよね。
…ということで、迷走しておりますが(笑)、「死刑は存置。執行は現場の負担をできるだけ軽減」というのが、現時点での私の考えになります。
投稿: baukichi2 | 2008年3月11日 (火) 11時20分
ありがとうございます。
丁寧な応接ありがとうございます。
前回のコメントで言い足りなかったことを掻い摘んで言おうと思います。
良く、死刑廃止問題を提議するとき、多くの方々は加害者と被害者との狭義で問題を捉えようとしますが、実は二者だけの問題ではないのです。
ひとつの一人の殺人のその影響は、まるで披露宴のように広がっているのです。
被害者家族、親戚、友人はもとより、加害者家族、親戚、友人、現場となった、現場にされた持ち主、目撃者、会社、学校、警察、司法、ありとあらゆる人々に何らかの衝撃と、一生忘れることのできない楔と重石を打ち込むのです。
罪は相当重く、深いのです。
次に、加害者は大抵「死刑の存在」を理解している筈です。殺人時に於いては忘れていることもあるでしょうが、隠蔽する、逃亡する時点では、相当の刑罰を知識として理解している筈です。
それに対して被害者は、何にも知らされていません、
自分が何ゆえここまでの命なのだろうか、さえ分からぬまま死に直面します。後々の幸せを築く予定もなにもかもが吹き飛んでしまいます。
死刑と、殺人は根底から同等には考えられません。だから昔は死刑の刑罰にもいろいろと厳しいものがあったのです。だからといって昔に戻せと言うつもりはありませんが、安らかにあの世に旅立っていただくのはせめてもの温情なのです。
さて、ひとつだけあなたのお返事で引っかかるところがありました。
私は、殺人にしても、性犯罪にしても、窃盗にしても、脳のどこか?で快感イメージ、スリル感イメージ、或いは止まらぬ激情,強欲を発症する部位があるものと思っています。
確かにそれらは複合的なものではありましょうが、
刑罰の不自由や死刑を覚悟しなければならない将来を考えれば、十分に選択研究をする余地があるのではあるまいか・・・と思えます。
それこそが刑罰に於ける先見性、進歩性につながると確信しています。
少しでも、それらが犯罪抑止に役立つのであるならば、そのための副作用には目も瞑れるのではありませんか・・・
それは加害者を作らない、被害者を作らない、抑止策の一環としての機能を果たすものと思います。
まあ、日本社会にはそんな卓越した先見性、先進性を有する人はまずもっておりませんが・・・・・
投稿: ara | 2008年3月11日 (火) 22時05分
お返事ありがとうございます。
ひとつの犯罪の影響が「まるで披露宴のように」広がるというのは非常に印象的なたとえですね。自分が多少なりとも関わった人物に不意に死が訪れる、しかもそれが他人の手によるものであるとなると、その衝撃は自然死とは格段に違うものでしょうね。
また、現在の法律では基本的に侵害した法益以上に過大な処罰は与えられませんから、遺族や関係者にとって「火あぶりにしたい」「股裂きにしたい」と思うほどの殺人犯であれば、たとえ死刑判決が出ても割り切れない気持ちが残る場合があるのでしょうね。その意味でも、araさんの「死刑と、殺人は根底から同等には考えられません」という言葉には賛成です。
犯罪抑止策としての脳への処置についてはaraさんと私とで意見が分かれましたね。この方策をもし実現しようとしたら、現状では「倫理的な是非」と「技術的な可能・不可能」の二つのハードルを越えなくてはならないでしょう。
倫理面に関しては考えがまとまらないので置いておきますが、「ある犯罪を犯す傾向に対して、特異的な抑制効果を発揮する手段を、常習者に限ってほどこす」という前提のもとなら、私はアリかなと思います。ということは、私にとってこの問題は、そうした手段が実現できるかという「技術的な可能・不可能」に集約されるといえます。
そして、この点においておそらくaraさんと私の見解が食い違っているのでしょう。確かに現在でも、体の感覚や運動、発話や言語理解などの日常行動に関与する脳部位はある程度特定されてはいます。しかし、犯罪行為を繰り返すことの背後にあるような、攻撃性、衝動性、暴力性、スリルへの志向といった性格傾向では、話が違ってきます。これらの傾向は、ある特定の部位のみによって担われているわけではなく、また、それを担う部位は別の脳機能や行動にも深く関与していると思うのです。
もちろん選択研究をする余地はあると思いますが、先に挙げた「前提」を満たすような技術の実現には、今後どれほどの科学的進歩があったとしても、なお相当の時間がかかるのではないでしょうか。
犯罪常習者の生体にある程度手を加えてよいというのであれば、GPSのチップを埋め込んで、常に行動が監視・記録されていることを意識させる方が、犯罪抑止の近道なのではないかという気がします。
投稿: baukichi2 | 2008年3月12日 (水) 10時44分
ありがとうございます。
私の思いも伝えきれたので、これで最後にします。
犯罪抑止策としては、意見が分かれましたが、私は加害者も実は救済を求めている、という点を言いたいと思います。
スリルの興奮を抑えることができない、自分の奥底から燃え滾るような激情を我慢することが出来ない。
常軌を逸してしまっていることに反省しながらも、体の中から迸る殺人のエネルギーをシャットアウトできない、もどかしさに苦しむのもあるのです。
普通を越えてしまう激しい心を抑えようと試みても、快感のイメージに抗しきれない自分がいるのです。
そして多く「たすけてくれー!と心内では求めているのです、みんなとは言いませんが・・・・
みんな環境の為せるものもあるし、持って生まれた遺伝子との合体でもあるのです。
私たちの近代化は、高度な文明は、どうして良いのか分からないコントロールを失った加害者、と、周辺につながる者たち、図らずもその悲劇に見舞われた被害者、と、その周辺につながる者たちを、このままいつまでも見捨てて良い訳がない。
たとえ、長い道程を辿ろうとも、その目標に向かっていくべきだ。
刑罰を重くするのが抑止ではない、死刑を失くすのも果たして抑止と言えるか・・・?
どちらにしても殺人は発生するのが自然の成り行きなのであり、多分その種は尽きない・・・・だろう・・・
真の抑止は、情緒不安定な彼ら、彼女らをある意味で真正に作り変えるチャンスを与えてやることだと思う・・・・
抑えられぬ激情を奪い取って、意欲を減衰させては何にもならぬ、が、少なくとも、一大不幸は免れる。
その調整技術の発達は、世界に思わぬ幸運をもたらせてくれることは必定と思われます。
いろいろとお世話になりました。
以上で私の考えがおよそ、述べることができました。
コメント欄をありがとうございました。
投稿: ara | 2008年3月12日 (水) 21時40分
再度のお返事ありがとうございます。
このやり取りをするうちに、私の中で曖昧なままにしていた部分に方向付けすることができました。お相手がaraさんのように、犯罪をめぐる被害者から加害者までバランスよく目配りされる方だったのが幸運でした。
今回のご意見も、加害者に対する救済という観点から脳や心のコントロールを考える契機になりました。私はそうしたコントロールを被害者や一般社会の側にとっての必要性からとらえるのみで、加害者が進んで自分の欲望を矯正したいと願うケースもあることが頭から抜け落ちていました。
確かにそうした加害者が一定数存在するとすれば、犯罪傾向を薬物等によって抑制する方法は、加害者にとっても希望の光になるでしょうね。あとは、そうした加害者の協力姿勢を維持させるためにも、できるだけ副作用の小さいやり方を開発できるかどうかですね。
これに関連して、以前に斜め読みした「脳が殺す」(J.H. ピンカス著)という本には、暴力的行動を抑制できる薬物はあるが、それが暴力的衝動そのものを軽減するかどうかは実証されていないというようなことが書いてありました。ここでのやり取りとは直接関係しないテーマも多く含む本ですが、後日再読して感想をあげることにいたします。よろしかったらまたご覧ください。
投稿: baukichi | 2008年3月13日 (木) 11時38分