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2008年3月

2008年3月29日 (土)

うらやま楽しい現代版「まんが道」―「アオイホノオ 1巻」

 1980年代。漫画業界全体が甘くなっていた(?)頃… 

 大阪の芸術系大学に進学して、いつかはマンガ業界で名を上げてやろうと燃えまくっている若者がいた。名は焔燃(ホノオ・モユル)。
 ほとばしるマンガ・アニメ・特撮への情熱と、いつかはデビューできることを疑わない並々ならぬ自信
 でも彼は絵が下手なのだった(笑)。漫画原稿の枠線の引き方さえ実は知らない。果たして彼は漫画家になることができるのか?

アオイホノオ 1 (1) (ヤングサンデーコミックス) アオイホノオ 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)

著者:島本 和彦
販売元:小学館
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 これは面白いです。実に読んでいて楽しい。
 プラス、主人公のことをうらやましいと思う気持ちが湧いてきます。

 いわば「うらやま楽しい」マンガです。

◆ 80年代を知る

 まず楽しいのは、80年代のアニメやマンガシーンがどういった状況にあったのかが、主人公の目、ということは島本和彦フィルターを通してつぶさに描かれること。
 主人公は裏表紙の学生証によると、昭和36年4月26日生まれ。私とはひとまわりくらい違うってことになります。私が物心ついたときにはすでに一線級であったあだち充、高橋留美子、細野不二彦といった漫画家たちが、雑誌デビューしたての頃にどんな待遇を受け、どんな受け止められ方をしていたのか。その辺りのよく知らなかった事情がわかるのが興味深いです。

 そしてこれらの漫画家に対して、主人公がそれはもうカンペキな「上から目線」で批評をします(笑)。「俺だけは認めてやろう!!」と、若かりしあだち充や高橋留美子に言い放ってほくそえんでるわけですね。いや、もちろん主人公はこうした人たちのマンガが好きで言ってるんですよ。

 なんというか、漫画家への愛が高ぶりまくり、それゆえに独善的な態度に陥ってるわけです(身に覚えがありすぎる(笑))。

 私はそもそも作者の島本和彦のファンですし、あだち充、高橋留美子、細野不二彦も自分の漫画史を振り返って絶対になくてはならない存在です。いわば、好きな人が好きな人のことをほめているという状態。これはうれしいものですよね。

◆ 青年立志もの

 この作品のもうひとつの魅力は、まだ何者でもない若者が、もがいたりあがいたりしながら身を立てようという様を、笑いながらも期待を込めて見守れるというところです。何せ、現実の焔燃(島本和彦)は、今や立派な漫画家です。ということは、この後、デビューへの階段を登り、読み切りの掲載、連載の獲得…と話は進んでいくはずです。

 いわば現代版「まんが道」

 藤子不二雄A「まんが道」は本当に好きな作品なので、またああいった話が読めるかと思うとそれだけでワクワクします。

 しかも今のところ、主人公はマンガのテクニック的にはまだまだのよう。同期の庵野秀明の才能(パラパラ漫画とか最高にうまくてビビります)、先輩(なのかどうかよくわからない)の矢野健太郎の凄さにかなり圧倒されてます。
 ここから、どう将来への道が拓けるのか。

 さらには、天然スレンダーお姉さんと、元気はつらつスポーツ少女との、恋のような恋でないようなウラヤマしい関係もひそかに目が離せないです。愛…しりそめるか?(笑)

◆ 「うらやま楽しい」

 …ということで、このマンガ、全体的に読んでいて楽しいだけでなく、「いいなあ」「羨ましいなあ」という気持ちが湧いてきます。

 これはおそらく、マンガが好きで青春を送った者なら誰もが一度は憧れる「漫画家」への道をひた走っている主人公の姿がまぶしいんですね。
 マンガ好きなら、漫画家になりたいと思う。でも、努力してもきっとなれない。そう思うから「マンガ道」を走らないわけです。漫画家になれるって自分の未来を知ってたら、マンガ好きは100人中100人が「マンガ道」を走りますよ。言い切るなあ。

 ところがこの作品の主人公はそこをわき目もふらずに走ってる。まあ多少悩むこともあるのですが、それも含めて実に楽しそう。恋までついてくる。

 しかも、私たちは、この主人公が最終的に漫画家になれるという「未来」を知っているのです。彼の努力が報われることを。

 それが、このマンガが「うらやま楽しい」ことの源泉でしょう。

愛…しりそめし頃に…―満賀道雄の青春 (1) (Big comics special) Book 愛…しりそめし頃に…―満賀道雄の青春 (1) (Big comics special)

著者:藤子 不二雄A
販売元:小学館
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2008年3月21日 (金)

「です・ます」宣言―「図で考えれば文章がうまくなる」

 突然ですが、これから「です・ます」調をこのブログの文体の基本にします。

 ブログを始めて10か月近く経ちますが、ここ最近、どうも「だ・である」調のスタイルにいろいろと違和感を感じるようになってきました。ということで、ここらでひとつ「です・ます」宣言をして、文体のスタイルチェンジをしようと思います。

 なぜそう思ったのか、理由を以下に述べます。あくまで個人的な意見ですが、一般化出来る部分も多少あるかと思います。

(1) 文体から受ける印象

 同じことが書かれている文章でも、「です・ます」調と「だ・である」調では、当然ながら受ける印象が異なります。
 たとえば、私の一昨日のエントリ「その道路は未来につながっていない」の一節を例にとります。今までの「だ・である」調の文はこうです。

昔は、道路を作ることが「必要」だったのだ。道路特定財源制度を田中角栄が立法化したとき、日本の道路事情はアメリカの調査団から「貧弱」呼ばわりされていたという。国を成長させるために人や物の流れを円滑にするインフラを整えることは、確かに社会のニーズだったのだ。だから道路利用者の税金を道路整備に優先してまわすこの制度には意義があった。

 それを、「です・ます」調に直せばこんな感じになるでしょか。

昔は、道路を作ることが「必要」でした。道路特定財源制度を田中角栄が立法化したとき、日本の道路事情はアメリカの調査団から「貧弱」呼ばわりされていたそうです。国を成長させるために人や物の流れを円滑にするインフラを整えることは、確かに社会のニーズだったのです。したがって道路利用者の税金を道路整備に優先してまわすこの制度には意義がありました。

 …う~ん、やっぱりだいぶ印象が違いますね

 大雑把にいって、「だ・である」調はちょっとお堅いですね。冷たい感じや権威的な感じがします。それが逆に、格好良さや知的さを印象付ける場合もあるかと思いますけど(自分の文で何言ってんだ(笑))。
 それに対して、「です・ます」調は親しみやすい感じです。丁寧で優しい人みたい。ただ、あんまり親しげにし過ぎると「馴れ馴れしく」、逆に親しみを抑え過ぎると「よそよそしく」なるでしょう。サジ加減は難しいですね。

 「だ・である」調でめっさ親しげなサイトもいっぱいありますので一概にはいえませんが、私の文章ではあまり親しみは湧いてこないのは確かですね。自分のリアルな性格が「です・ます」イメージ寄りな気がしますので、「だ・である」で書いていると居心地があまりよくありませんでした。

(2) 巡回サイトとの不一致

 私はあまりたくさんの巡回サイトを持っているわけではないですが、それでも毎日のように見てる・見たくなるサイトがいくつかあります。偶然そこを訪れたり、場合によっては何度かそういう偶然を経ることで、自発的に行きつけのサイトにするようになったわけです。

 で、自分の巡回サイトのうち文章系のところを改めて調べてみると、ほとんどが「です・ます」調で書かれてるのでした。およそ9:1で「です・ます」でしたビックリ(←ていうか気づけよ(笑))。

 私の見ている「だ・である」調のサイトは、著名人や、社会的地位が認知されている人のものがほとんどで、「中の人」をリアルに知らないサイトで楽しみにしているのは「です・ます」調のものばかりだったわけです(例外はもちろんありますが)。

 繰り返しそのサイトに行きたくなったからには、自分の中に何か理由があったはずです(それが何かは特定できませんけど)。「自分が読みたいもの」と「自分が書いてるもの」が一致してないところに、文体に関する違和感の一因がありそうです。

(3) 久恒啓一「図で考えれば文章が上手くなる」

図で考えれば文章がうまくなる―「図解文章法」のすすめ
Book
図で考えれば文章がうまくなる―「図解文章法」のすすめ
著者 久恒 啓一
販売元 PHP研究所
定価(税込) ¥ 1,155

 これは去年読んだ本ですが、よい文章の書き方を身につける上でたいへん参考になる良書だと思います。その123ページに、「だ・である」と「です・ます」のどちらを自分の文体のスタイルとするか、きちんと確立しておくべきということが書いてあります。

 ちょっと長いですが引用します。

 私自身は、以前は「だ・である」調を基本に文章を書いていました。ところが文章が難しくなる場合が多く、なかなかすっきりと文章を書き飛ばしていくということができませんでした。中身の割にもったいぶって書いてしまうことになりがちでした。

 これ、よくわかりますわー。

 しかしある時期に「です・ます」調に変えてから、文章を書くのがずいぶんと楽になりました。読み手に対してもやさしく語りかけるような感じで書いていくスタイルが、頭の働きを活発にすることにも気がつきました。
 それまでは文章としての格調だとかリズムとかに関心が集中していたのですが、「です・ます」調になってからは、語りかける中身のほうに大きく重点が移ったような気がします。

 数か月前にこの記述にいたく感心していたのでした。そのわりに、「だ・である」調でブログを書いてたんですが(笑)。

 実際に「だ・である」調で書いていて感じたのは、文章だけでなく内容も小難しくなりがちだということです。これまで述べたことと合わせると、「どこの誰が書いているか知らないサイトで」「小難しい内容を」「お堅い文章で」述べていても、あまり読みたいと思う人はいないんじゃないでしょうか。少なくとも私はそうですね。

(4) コメントでのやり取り

 以上のような考えは、ずっと心の中でくすぶってはいたのですが、だからといって一度決めた文体を変えたくなるほどにまとまってはいませんでした。

 ですが先日、「です・ます」調が自分に向いていることを改めて意識する機会がありました。それは、「人は人を殺すことに耐えられるか」というエントリのコメント欄でやり取りをしたときです。
 コメントは通常の記事と違って、「相手のいる文章」です。で、知らない方とやり取りするときは礼儀として「です・ます」調の文章になりますね。そのときも、通常の記事の「だ・である」調を捨てて「です・ます」調でコメントを書いていたのですが、これが実にしっくりきたのでした。

 あー、やっぱり自分にはこっちが合ってるかな、と。これが最後の決め手になりました。

(5) まとめ

 というわけでの、今回の「です・ます」宣言なのでした。
 もちろんこれは私の性格やブログの内容などが相まってのスタイルチェンジなので、万人に通用する話ではありません。人それぞれのスタイルがあってこそ面白いのだと思います。

 私の場合、今までの文章では、「だ・である」:「です・ます」=9:1くらいでした。基本は「だ・である」で書いて、読んでる人にフランクに呼びかけたいなー、というときだけ「です・ます」を使ってました。

 それを今後は、「だ・である」:「です・ます」=1:9くらいにしようと思います。基本は「です・ます」調。そこに、心の声とかボケ・ツッコミとかだけ、「だ・である」で挿入する感じでいきます。あ、でも、両者の中間的な体言止めも増えるかも。全文に「です・ます」を付けるとやっぱりよそよそしいんですよ。

 まあしばらくは試行錯誤ですね。いつまでもきっちり型が決まらない可能性もありますが、そのときは雲のジュウザ的な感じで。「無型ゆえに誰にも読めぬ」というか。読めなかったらいかんがな(笑)。

[MEMO]------------------------------

*「図で考えれば文章が上手くなる」はほんといい本です。「考えながら文章を書く」ことの非効率を指摘し、何を書くかを図解で考えた後に文章にせよと主張します。

 文章は「何を」「どう」書くかが肝心ですが、文章がうまくなりたいという人の関心は「どう」書くか、すなわち文章表現の技術に大体向けられています。でも実は、大方の人は「何を」書くかがちゃんと決まっていないのですね。だからうまく書けないのです。

 本書はそのことを気付かせてくれるとともに、古今の文章読本のエッセンスを紹介し、それらを土台に「図解文章法」という新たな技術を提供してくれます。まさに一石二鳥というか、三鳥くらいの効果があります。大学入試の小論文なんか、これを実践したらかなりいいものが書けるんじゃないですか?

 このブログでも、ちょっとややこしくなりそうな話をわかりやすく書きたいときに、この方法を使っています。「あほな…の連発必至―「輸入食品の真実」」とか、「インモラルでも、信じたい―「電波の城 4巻」」とかの図解の紙が手元に残ってます。とにかくおススメの一冊です。

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2008年3月20日 (木)

この結末には、きっと泣く―「医龍 16巻」

 この感動を、どう伝えればよいか。手に汗握るストーリーと美しい作画で、いま最高に面白いと断言できる医療マンガの16巻。

医龍 16―Team Medical Dragon (16) (ビッグコミックス) 医龍 16―Team Medical Dragon (16) (ビッグコミックス)

著者:乃木坂 太郎,永井 明
販売元:小学館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 今まで幾度となく難手術を奇跡的な腕で成功させてきた天才外科医の朝田だが、今回の緊急手術では輸血用の血液が足りないという絶体絶命の窮地に陥る。そこで、朝田に反発しつつもあこがれてきた研修医の伊集院くんが、嵐の中へと輸血用血液を受け取りに走る!

 可能な限りの手を尽くしつつ彼の帰還を待つスタッフたち。そんな中、人の命を預かる医療現場で研修医のような未熟な医者を「信頼する」ことについて朝田が語る場面がある。

朝田「思い出せよ。(伊集院が)成長したから信じたんじゃない」

  「成長する事を、信じたんだ」  ←ここがまずシビれる

  「俺は、いつまでもここにはいない」 …

  「平凡で未熟な医者に期待することを忘れて―」

  「誰にバトンを渡していくんだ!?」

 アツい上に深い!名シーン。

 いくつもの困難がふりかかり、アクシデントにも見舞われ、やがて絶望的な状況が訪れる。その中で生まれた「人の絆」「信頼」がもたらす結末とはいかなるものか?

 詳しくは書かないけれど、「信じ、努力すること」にまつわる冷徹な現実をこれでもかと突きつけつつ、なおそうした姿勢を肯定できるような得がたい喜びを最後に配するという奇跡のストーリーテリングに、ただただ感動、感涙だった。

 この巻のラスト、伊集院に残された仕事とは何だろうか?やはりあれだろうか?続きが待ち遠しい。

※ 14巻の感想

[MEMO]------------------------------

医者の育成は難題だ

 前に読んだ久坂部羊「大学病院のウラは墓場」でも、2004年12月に発覚した、東京医大病院での心臓手術連続死亡事件について言及があった。この事件では、執刀医の上司にあたる教授が「弁膜症手術の経験を重ねさせてやろうと思った。言葉としては悪いが、トレーニングとして必要だった」と言ってしまって、非難の声を浴びた。

 だが、医者である久坂部氏は率直に言う。

私もこの発言には大いに問題があると思う。ただしそれは、患者をトレーニングの材料にしたからではなく、そのようなほんとうのことを迂闊にしゃべってしまったからである。

 そうした「トレーニング」を積まないと、のちに何人もの命を救えるような医者は育たないのだ。

 こうした人材育成と、医療過誤、医療訴訟、医療政策は複雑に絡みあっていて、とても唯一解を出せるような問題じゃない。ただ、今よりももっと高度な人体シュミレーターを開発して、路上に出る前の所内教習みたいな訓練を、様々なケースでやれるようにはなって欲しい。

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2008年3月19日 (水)

その道路は未来につながってはいない―「『道路』の暴走」週刊ダイヤモンド2008年3月22日号

 要は、必要なものだけ作ったらいい。道路ってやつは。

 道路特定財源のニュースがにぎわっているが、流用だのなんだのの前に、本当に必要な道路を作るために本当に必要な予算を組むという前提が崩れてるから、おかしくなるのだ。莫大な借金を次世代に残してまで予算規模を維持しようという輩が国のトップにひしめいていることに目まいがする。

 …というところに、今週の週刊ダイヤモンドの特集「『道路』の暴走」は面白かった。

 昔は、道路を作ることが「必要」だったのだ。道路特定財源制度を田中角栄が立法化したとき、日本の道路事情はアメリカの調査団から「貧弱」呼ばわりされていたという。国を成長させるために人や物の流れを円滑にするインフラを整えることは、確かに社会のニーズだったのだ。だから道路利用者の税金を道路整備に優先してまわすこの制度には意義があった。

 でもね。今はもう社会のニーズは変わってるのだ

 これ以上、どこまで道路を引く必要がある?この特集には、仏独英伊の4ヶ国と日本を比較した面白いデータが載っている(P.51)。日本はこの5ヶ国中で最高の道路延長距離と道路投資を有している。日本と比較して国土面積が同程度のドイツや1.5倍のフランスよりも、はるかに長い道路を、はるかに高い金をつぎ込んで作っているわけだ。道路投資でいえば、次に多いフランスの3兆2988億円にダブルスコアの8兆2449億円だ。バ、バリバリだぜ!

 それでも、みんなが道路を使ってたらまだいい。しかし、最新の交通センサスでは、明らかに交通需要は減少している。金食い虫の高速道路も、並行する一般道と比べてガラガラだし、最近開通した高速道路は軒並み大赤字だ(すべてこの特集にデータあり)。トホホである。
 やっぱり、今後はもう本当に必要な道路だけを作るようにすべきでしょう。

 そのためには、新規の道路整備の必要性をきちんと討論する場が必要だ。ところがそういう場はほぼ皆無で、あるのは道路族議員と国交省の役人のお手盛りでシャンシャンと事が運ぶ茶番劇のみなのだ。

 新規の道路の必要性は、費用便益分析で計られる。これは、道路の需要予測をもとにその便益を金額化し、必要な費用を上回るかどうかを判断するものだ。一定程度上回れば、道路作りが決まる。
 ところが、この分析にはいくつものカラクリがある。この特集では、2007年11月に出された「道路の中期計画」でのアヤしい操作が紹介されている。

 たとえば、新規に道路が建設されて走行時間が短縮される場合には、「走行時間短縮便益」を計上できる。これがどのくらいの数値かというと、1時間短縮されたら3771円の利益が出るものとして計算している。その道を走る車のドライバーたちが1時間もらえたら、一人当たり3771円稼げるというわけだ。それどんな危険なバイトの時給?(笑)。勤め人だって時給換算したらそんなにもらえてない人ばかりだよ。
 この金額に「×交通量×年数」で便益を計算するから、「時給」が少しでも違えば、計算結果には膨大な差が出る。3771円ってのは、水増しし過ぎでしょう。

 また、さっき述べた交通需要の問題。人口も減るのだし、将来的には交通需要は漸減して当然だ。事実、2007年3月に出された交通センサスはそうしたデータを示している。
 ところが2007年11月に出された「道路の中期計画」では、これを(おそらく意図的に)無視し、2002年公表の高い需要推計値を使って計算をしている。おまけに、今から30年後~50年後の20年間は、交通需要は低下せず一定と見なすなどと、ありえない仮定をしている。要は、不当に高い交通需要をはじき出しているわけだ。

 さらに、実際に道路を作る際に、その地域の住民へ行う説明もひどい。この特集では個別事例として富山市の高架化の例が紹介されているが、国交省の役人がこうした費用便益分析の結果をちゃんと説明したくない様子がアリアリだ。やたらと高い評価値を口頭で説明しただけで、「事業化したときそのつど変わる可能性があるから」と文書は配布しない。ていうか、あまりにお粗末な分析だから配布できないんでしょ?

 繰り返すが、私は必要な道路は作ったらいいと思う。その必要性を正々堂々と明らかにせよと言ってるだけだ。
 必要性ったって、何もお金に換算できるものだけでなくてもいい。とくに地方の道路に関しては、住民の生活における具体的なニーズまで盛り込んで、要不要を議論したらいいのだ。

 なぜそれをしないのか。できないからじゃないのか?必要性を担保してくれるようなちゃんとした説明が付けられない道路ばかり作ろうとしてるからじゃないのか?
 「そんなことはない、説明しようと思えばできるが、そうした議論は往々にして長期化するので、着工すべき時期に着工できなくなるからやらないのだ」という意見もあるかもしれない。でもそれは、「着工すべき時期」じゃないってことだろう。何百億、何千億もの費用がかかるものを、この財政逼迫の折に、必要性も明らかでないままどんどこ作ろうっていうのは、頭がいかれてる

 道路族議員、国交省の役人、天下り先の法人、高速道路会社とそのファミリー企業、土建屋の、誰も未来を見てない。目先の金しか見てない。最大50兆円にもなろうかという新たな借金を次世代に押し付けることに、罪悪感のカケラもない。そうした上の世代のふるまいを見て、若者や子どもが呆れていることに、恥を感じることもない。

 国土のすみずみまではりめぐらされた道路。それらをほとんど使うことなく、借金にまみれてどんどんと減ってゆく国民。

 まるで滅亡寸前のローマのようだよ。

[MEMO]------------------------------

*片山善博・慶大教授(前鳥取県知事)の「納税者は道路だけを利用して生きているわけではない」(P.42)という言葉がすべてかと。

*道路整備の必要性を訴える議論の中に必ず、公共事業が地元の労働者にもたらす経済効果の話がまぎれているが、こんなのはもうナシですよ。その公共事業をひねり出すために多額の借金をして、結局は税金でそれをまかなうことになる。そうするとまたいろいろ増税が必要になる。国民が自分で使える金は減る。消費は冷える。非正規雇用が増える。

 …一部の土建屋を過剰に潤わすために、なぜみんなで沈んでいかなきゃならないのか?おまけにそこで生まれるものはおよそ必要性に乏しいものなのだ。まったく理解に苦しむ。

*税金はある程度取っていかれたって構わない。それが未来につながるなら。東洋経済2007年1月12日号の特集「北欧はここまでやる」には、高負担の税制の中でも国が成長を遂げ、国民が幸福を感じられる仕組み作りが十分に可能であることが示されていた。

 教育にかかる費用が少なく、雇用は転職支援も充実していて、老後のケアは手厚い。だからかえって可処分所得の中で自由な消費ができる。高齢世代から現役、子ども世代まで、未来に向かってきちんと循環する社会だ。

 もちろん北欧もいいことばかりではないし、国民性の違いもあるので高負担高福祉を日本にすぐに導入すべきとは思わない。ただ、年金、介護、医療、子育て等、どの問題をとっても、日本はうまく税金が使えているように見えない。正確にいえば、問題が起こってから税金の使い道を柔軟に変えるチカラがまったく欠けている。道路問題は、その象徴でしょう。

 それこそ、雇用支援特定財源とか、出産・子育て特定財源とかあってもいいくらいじゃないか?

*(2008.3.19追記)今日の夜のニュースでは、道路事業費が計画段階よりも8兆円も膨らんでいたとの報道も出ていた。なるほど、その手があったか~(苦笑)。はじめに納得できる程度の費用を示しておいて、後でこっそり上積みする。

 NEWS ZEROでは、沖縄の道路で300億円と見積もられていた事業費が、結局1200億円になった例が報じられていた。ぼったくりバーか。芋洗坂係長カモン。

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2008年3月15日 (土)

分厚いドラマを見たいんだ―「ONE PIECE 49巻」

 その旺盛な発想力にひたすら感心するほかない、海賊冒険ロマンの49巻。50巻の大台は目前だ。

ONE PIECE 巻49 (49) (ジャンプコミックス) ONE PIECE 巻49 (49) (ジャンプコミックス)

著者:尾田 栄一郎
販売元:集英社
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 怪奇の島、スリラーバーク編が終わりに近づいている。このエピソードは46巻から始まったので、5巻くらいでまとまるということなる。たいへんケッコウなことだと思います。が、エピソードが短けりゃいいってもんでもないような。

 「ONE PIECE」の魅力のひとつは、少年向けバトルマンガという器に大人でも泣けるヒューマンドラマを入れてるところだ。作品の売れ行きからいって、少年マンガ史上で比肩しうる存在は「ドラゴンボール」しかないと思うが、他の要素はさておきドラマ性の高さでは「ONE PIECE」のほうが上だろう。ひとつのエピソードの終盤に大きな感動をもたらすために、序盤では周到に伏線が敷いてあったりする。

 でもそれをやると、どうしても展開が遅くなるんだよね。この作品への批判として「話が長すぎる」とよく言われるが、これはドラマの厚みを少しでも増そうとすることによる弊害といえるだろう。

 ただ、やっぱり分厚いドラマがあってこその「ONE PIECE」だと思うのだ。もしこの要素を減らしたら、そりゃ偉大な先駆者である「ドラゴンボール」に並ぶべくもなかったろうし、「聖闘士星矢」や「魁!男塾」にも勝てなかったろう。

 つまり、このマンガのファンは、長大なドラマにじっくり付きあうしかないってことです。

 この巻を読んでそんなことを思ったのは、モリアが

「仲間なんざ生きてるから失うんだ!」

「全員が始めから死んでいるゾンビならば 何も失う物はねェ!」…

「おれはこの死者の軍団で再び海賊王の座を狙う!」

…と叫ぶ場面。

 これはかなり痛切な叫びですよ?尾田栄一郎なら、きっとこの先、モリアの過去編で4話は使うね(笑)。47巻でモリアは「今のような部下がいれば、新世界でカイドウに敗れることはなかった」と言っているので、その辺りの事情が絡んでの、この叫びだろう。

 スリラーバーク編、次の巻で終わると思ってたけど、これは油断できませんな(笑)

47巻の感想

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2008年3月14日 (金)

まさか一度きりの恋の相手があの人とは―「芸妓峰子の花いくさ ほんまの恋はいっぺんどす」

 5歳で親元を離れて祇園の置屋に暮らし、10歳で跡取りとして置屋の養女となる。15歳で舞妓になると、またたく間に祇園で売り上げナンバーワンにのし上がる。先輩たちの「いけず」にも負けず、各界の一流人にひいきされながら、ナンバーワンの座に6年間座り続ける。

 そんな花柳界の伝説が、自らの半生と祇園の成り立ちをつづった自伝だ。

芸妓峰子の花いくさ―ほんまの恋はいっぺんどす (講談社プラスアルファ文庫) 芸妓峰子の花いくさ―ほんまの恋はいっぺんどす (講談社プラスアルファ文庫)

著者:岩崎 峰子
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 最初に断っておくと、私自身はいわゆる「夜遊び」は苦手なタチなので、そういうところにジャブジャブ金をつぎ込む人の気持ちにはどうしても理解できない部分があるのだが、それはそれとしてその世界には興味がある

 いわゆる「京都の祇園」とは、正式には「祇園甲部」という花柳界である。桃山、江戸の時代から現代に続く歴史をもつ。明治時代には「祇園甲部女子職業訓練会社」という財団が設立され、お茶屋組合や芸妓組合が加わって、「祇園」を運営するようになった。著者によればこの財団は以下の目的をもっていた。

女性の職業としての芸を芸術と認め、「芸は売っても身は売らぬ」の精神を貫き、それを糧にした自立、地位の向上を目指したもの

 なるほどなあ。立派な「職業婦人」をめざしているわけだ。

 こうした日本の伝統芸術を守り抜くという姿勢が、他の花柳界との違いであり、祇園の舞妓、芸妓のプライドを高めていると著者は述べている。第二次大戦後は、「学校法人 八坂女紅場学園」を設立し、教科として舞や邦楽の稽古を提供し、新しい人材を育成しているという。

 本書の冒頭でこうした予備知識を得た後で、幼い「政子」が祇園に入っていくところから語りが始まる。彼女は祇園ととくに血縁もない家に11人兄弟の末娘として生まれたのが、祇園の芸妓置屋の跡取りにと懇願されて引き取られたという身の上である。

 踊りが好きな子だったというのが救いだが、両親は決して養子に出したかったわけではなかったのにそのようなことになったいきさつには、いろいろと事情があるにせよやはり切ないものがある。

 その後、まず舞妓になるまでに紆余曲折がある。不本意な理由で名前を「峰子」に改名させられたり、思わぬ血縁者が登場したり。とくに、置屋に出入りできる男性は限られている(力仕事の男衆、菩提寺の住職、呉服屋、集金の丁稚、仕出し料理屋のみ)のに、それを破って同居した男の子がもたらした災難は、その後ずっと峰子を苦しめることになる。

 舞妓になってからもこれまた波瀾万丈だ。人気が出るにつれて、持ち物を隠されたり座敷で意地悪をされたり、先輩たちからの「いけず」がエスカレートする。夜道で襲われたりすることもある。それらに負けないタフさがあってこその、売り上げナンバーワンなのだ。

 その一方で、祇園を訪れる著名人との交流は実に華やかだ。まず舞妓デビューして初めてのお座敷で相手をしたのが、エリア・カザンである。チャールズ皇太子や湯川秀樹に物申したりする様子もたいした肝っ玉だ。夏はごひいき筋が軽井沢に行くので自分も出張するらしいが、そこで出てくる名前が佐藤栄作、池田隼人、岸信介などである。これなんんて倉科遼?(笑)

 そんな著名人との交流の中でも、いちばんびっくりしたのが、「ほんまの恋はいっぺんどす」のお相手・利夫さん(本名)である。途中に出てくるツーショット写真で気づかなかった私がうかつなのだけど、最後にはじめて芸名が出てきたときには本当に声を上げて驚いてしまった(笑)。

 峰子に気に入ってもらうために三年間毎日お座敷に通うやら、「どうしても(妻が)離婚してくれないんだ」とわんわん泣いてその勢いで峰子と初めて結ばれたりやらしてた男は、あの人か…。ということは、「どうしても離婚しなかった妻」って、あの人か…。

 芸能事情に詳しい人には周知の事実なのかもしれないけど、私は初めて知って衝撃を受けました。

 最終的に峰子は置屋を継がず、祇園を出る。その後の結婚のいきさつや、最終章の利夫さんとの交流に、私は「女の業」を感じた。著者はいま作家としても成功して、祇園甲部の設立目的にあったように立派に「自立」しているわけだが、私はその消えぬ「女の業」のあり方に、むしろ「職業婦人」の本質を見る思いがした

[MEMO]------------------------------

*初めて知ったことが多すぎて本文には全部は入れ込めなかった。その中からいくつか。

*祇園甲部の「舞」は京舞井上流を流儀とし、他の花柳界が歌舞伎の「踊り」を基礎としているのとは異なっている。舞は神に奉納するものであるが、踊りは一般庶民が楽しむものである。したがって、昭和天皇が初めて歌舞伎を見たのは、「人間宣言」をしてからである。

*置屋は一人前の舞妓、芸妓を育てるために長い年月とお金をかける。そのお金は、舞妓が置屋から年季奉公の契約をして前借するもので、舞妓になったら6、7年かけて住み込みで返済するというシステムである。年季奉公が済むと、置屋を出て自立しなくてはならない。これを「自前」という。

*舞妓や芸妓はお茶屋でお客の相手をし、お茶屋は彼女たちのお花代を計算して紙券に書き、翌朝玄関脇の小箱に入れる。それらは祇園甲部芸妓取扱所というところで集計され、それに基づいておよそひと月ごとにお茶屋は置屋にお花代の支払いをする。またお客には後日請求書が届き、最近では支払いは銀行振り込みでするようになっている。ちなみに、お茶屋はお客によって掛け軸などの調度を高価なものに変えたりするので、舞妓や芸妓は部屋に入った瞬間にそのお座敷の「格」を判断できる目を備えなくてはならない。

*代々祇園通いをするような良い家の子息は、京都の大学に来た場合には、真っ先にお茶屋に紹介され、そこでお燗番のアルバイトをすることが多い。これは、そうした場所でプロの仕事を知り、舞妓や芸妓と馴染みになっておくことが、自分が将来社会に出てお座敷に上がれるような立場になったときに役立つと考えられているからである。

*本作は、昨年、井上真央主演で2時間ドラマになっていた。そのときすでに原作を読んでドラマを見たのだが、展開が性急・説明不足で正直あんまりな出来だった。そして、やっぱりというかしょうがないというか、利夫さんの正体についてはひと言も触れられてなかった。その後、奥さんの方は祇園を舞台にした昼ドラで、よりにもよって置屋の役をやってたけど、いったいどういう気分だったのか。別れても武志さんとの仕事を続けるマイラバのAKKOなみの執念。これも「女の業」かもしれない。

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2008年3月13日 (木)

万物の霊長たる能力とは―「アヴェロンの野生児」

 人間の能力は、他の生物と比べ、主に知的な側面において優れている。

 「ジョジョ」の中で、人間をやめるぞと言って石仮面を被ったディオのどこが発達したかといえば、身体能力なわけだ。裏を返せば、知的能力はこれ以上伸ばしても役に立つところがあまりない(少なくともマンガ内では)という荒木飛呂彦の判断が、意識的か無意識的かはわからないが、あったのではないかな。つまり、人間のままでも知的能力は相当高いということがそこには表れている。

 「ヒト」は、そうした知的能力の高さをもって、「万物の霊長」と呼ばれるわけだ。

野生児の記録〈7〉新訳アヴェロンの野生児 (1978年)
Book
野生児の記録〈7〉新訳アヴェロンの野生児 (1978年)
販売元 福村出版
定価(税込) ¥ 945

 幼くして森に捨てられ、11、12歳くらいで発見されたとみられる「アヴェロンの野生児」の話は、高校でも習うくらいに有名だ。この野生児の研究結果をどうとらえるかについては専門的な議論があるが(末尾のMEMO参照)、それでもなお興味深いエピソードである。

 本書によれば、当時の有識者たちにはこんなことを言う者もいたという。

この野生児の教育はたかだか数か月しかかからないだろう、その時には彼から過去の生活について興味津津の話を聞くことができるに相違ない。

 しかしそうは問屋がおろさなかった。本書の著者である軍医イタールが6年をかけた補償教育も、この野生児(通称ヴィクトール)を「普通児」にすることはできなかった。あとがきによれば、最終的に教育は中止され、ヴィクトールは推定40歳で亡くなったという。

 教育が中止された理由は、思春期に入ったヴィクトールの発作的凶暴性に手が付けられなくなったからだというが、こうした性向を抑えるのに必要な理性や判断力が十分に備わらなかったという一事をとっても、補償教育の効果に限界があったことがうがかわれる。

 とはいえ、まったくの野生状態であった最初期から比べれば、随所に進歩は見られるのだ。イタールは、身体的・精神的能力で著しい欠陥のあったヴィクトールの最初の状態をこう表現している。

彼は自分の種の最下位であるばかりか、動物の階梯の最後に位置していたわけです

 そこから、イタールの粘り強い教育が始まる。本書には、1801年初頭にヴィクトールへの教育が開始されてから1年弱の経過をまとめた「第一報告」と、その後の6年間の成果をまとめた「第二報告」が収められている。順に追っていくと、ヴィクトールができるようになったことと、結局できなかったことが明らかになる。まあ後者の方が圧倒的に多いわけですが…。

 まず、最初は感覚がおそろしく鈍感だった(嗅覚を除く)。冷たい雨の中で何時間も過ごしたし、焼けた炭や熱湯に手で触れてもなんともなかったという。こうした皮膚感覚は、熱い風呂に繰り返し入れることで、(神経の感受性が高まったためか)向上したという。

 味覚も訓練によって改善した。最初は、普通の人なら胸がむかつくような食べ物を汚物にまみれた手で食べていたのが、6年間で多くの料理を味わえるようになったいう。だが、グルメ的な偏食はなく、飲み物としては水を飲んでいる時がいちばんうれしそうだった(笑)という。

 視覚や聴覚は、器官としては備わっているのに、そうした情報を処理することが普通にはできなかったようである。たとえば聴覚については、母音の中で最初は「o」(オー)しか聞き分けられなかった(ヴィクトールと名付けたのはそのためである)。その後の教育で改善はしたものの、単音節の単語を数語聞き分けられるようになった、というのが第二報告に書かれていた成果である。

 もっと高度な知的能力はどうか。言葉を使うことに関していうと、まず話し言葉は、それに必要な音を口から発することが難しかった。第一報告の時点で、「u」を除く母音と3つの子音しか調音できないと書かれており、第二報告では、

治療を継続し時が流れても何の変化もおきないのを知り、とうとう、話しことばを与える最後の試みに終止符をうち、生徒を不治の唖のままに放置したのでした。

…とある。

 一方、書き言葉はそれよりずっと良く、具体名詞をおぼえ、それに付く形容詞をおぼえ、動詞もいくつか理解したという。それらを見て意味がわかるだけでなく、書くこともできたと述べられている。

 またこのことからもわかるように、記憶能力はある程度保たれており、訓練の中で向上もした。第二報告には、別の部屋から物を持ってくるように頼まれて、きちんとそれを達成できたと書かれている。「え、その程度?」と拍子抜けされる人がいるかもしれないが、そこまでずっとヴィクトールの悲しいありさまを見続けていた私はかなり感動したことを申し添えておく(笑)。

 とまあいろいろ書いてきたが、こうしたすべての訓練・教育のカギになったのは、感情の力なのだった。最初に彼が感じることのできた感情は、喜びと怒りの二つに限られていた。とても悲しい目にあっても、涙を流したことさえなかったという。

 しかし彼は、しだいに多様な感情を見せ始める。とくに、身辺の世話をしてくれるゲラン夫人に少しずつ愛着を示すようになったのは重要だ。施設を逃げ出して浮浪者として逮捕され、二週間ぶりにゲラン夫人と再会したときの話や、ゲラン夫人が夫を亡くした後の話などは、このヴィクトールが主人公だからこその感動的なエピソードである。この他にも感謝や友情といった複雑な感情を、彼がある程度理解し表出できたことが、訓練の助けになっていたことが本書からは読み取れた。

 ヴィクトールが最終的に「普通児」の水準に達しなかったのは悲しいことであり、適切なタイミングで教育を授けることの重要性を示している。だがそれだけでなく、この「アヴェロンの野生児」は、ヒトが「万物の霊長」たるためには、どんな能力が必要かを教えてくれていると思うのだ。

 それはおそらく、道具や言語を使えたり計算ができたりという知的な能力だけではないのだ。他の個体とスムーズに交流しながら、生存と種の保存に適した社会を作り上げるためには、感情の能力を欠くことはできない。感情がある程度備わったからこそヴィクトールの知的能力には進歩がみられたし、逆に感情面でどうしても普通児より欠落する部分があったからこそ、社会に出られるほどの知的能力に到達できなかったのだと思われる。

 両者が高度にそろってこその「万物の霊長」ではないか、ということを、知育偏重の向きには訴えたいと思った次第。

[MEMO]------------------------------

*発達心理学関係の本では、ヴィクトールはもともと知的障害があったか自閉症だったのではないかと考えられていて、健常児であれば補償教育でもっと良好な結果が得られたのではないかと書かれていたりする。

*DIOは仮面を付けて身体能力がアップしてたけど、第二部のカーズはさらに究極生命体になって知的能力もアップしてたような気がする。「究極生命体のヒミツ」的な大図解にそんなことが書いてあったような…。手元に単行本がなくて思い出せん。

ジョジョの奇妙な冒険 (2) (ジャンプ・コミックス) ジョジョの奇妙な冒険 (2) (ジャンプ・コミックス)

著者:荒木 飛呂彦
販売元:集英社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2008年3月12日 (水)

自分なら死んでいる―「上と外 上巻」

 熱帯の密林で繰り広げられる、少年と少女のサバイバル劇。大人たちの救いの手は二人に届くのか?そして彼らにつきまとう謎の存在の正体は?

 まだ上巻しか読んでないせいもあるけど、これは未読の人の興を削がないようにあらすじを紹介するのが難しい。ええっ、こんな展開になるの!?ってところがいくつもあるので、それらを伏せるとなると書くことに困る(笑)。

上と外 上 (1) (幻冬舎文庫 お 7-9) 上と外 上 (1) (幻冬舎文庫 お 7-9)

著者:恩田 陸
販売元:幻冬舎
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 本作は、2000年8月から2001年8月までに文庫本6冊に分けて刊行された作品を、2003年に単行本として合本して、それをまた上下巻で文庫化したものだ。一粒で三度美味しい商売である。それだけ恩田陸が売れるということだろう。私も6冊刊行のときは横目で眺めてるだけだったし単行本になったのは知らなかったのだが、結局今回ので釣られてしまった。

 で、内容はまだ海のものとも山のものともつかず、わかるのは森のものであることくらい(<我ながらくだらない)。すっきりした文体と改行の多さで、ページ数のわりにスラスラと上巻を読み終えられた。今のところ、とても面白い。あとは下巻でどう収束するか

 ネタバレになるので詳細は伏せるが、私の男性的な視点では、主人公たちの母親である千鶴子がちょっと気に食わない。でも、女性の作者なだけに最後は悪いようにはしないだろう。それは別に構わないけど、問題は過程。月並みに改心されたらヤだなあと思う。彼女が信念を貫く形で、万事まるくおさまることはあるか。それが楽しみ。

 あと、主人公の少年少女は実にかしこい。とくに少年のほう。これで中学生か…。自分が中学生で密林に放り出されたら絶対死んでる。ていうか、いまこの年でも死ぬな(笑)

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2008年3月11日 (火)

全ぼのファンに告ぐ。「必読」と―「ぼのぼの 30巻」

 基本的にネタバレは極力避けるのがこのブログの方針なんだけど、以下の内容は単行本を手に取って表紙をめくればものの数秒で判明する事柄なのでことさらに隠すことをせず、それよりむしろこの事実を天下に知らしめることで最近「ぼのぼの」から離れていた人にもぜひこの30巻は手に取って買っていただきたいという思いからあえて書きます。

ぼのぼの(30) (バンブー・コミックス) ぼのぼの(30) (バンブー・コミックス)

著者:いがらし みきお
販売元:竹書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 シャチの長老さま、死す。

ぼの「おとうさん 長老さまが死んで悲しくないの?」

おとうさん「みんなね」「生きて行けなくなると」「死ぬんだよ」

     「だからしかた」「ないよ」

 このエピソード自体は単行本の4分の1しか占めていないのでそれほど重たくはなっていないのだけど、おバカなギャグの合間にほんのりとにじみ出す叙情は素晴らしい。何よりも、スカーさんが出てきたり死神ラッコという懐かしい呼び名が登場したりで、昔からのファンとしては、ぐっとくる。

 他にもこの巻では、ヒグマの大将が久々に登場するし、アライグマくんのお父さんの往年の名台詞も飛び出す。

「オレぁな 戦争もきらいなら 平和もきらいなんだよ」

「宗教もきらいだし 愛なんてもっときらいなんだ」

「しかし~ なにが~ 一番きらいかっていうとな」

「ひとの家のそばを走っていくヤツだあーーー」

 今巻の帯でオリラジの中田が、「ぼのぼの」は小学生で出会ってからずっとぼくのほんとうの教科書でした、というような推薦文を付けていた。私も初めて読んだのは中学の時なので、その気持ちはよくわかる。懐かしいキャラやフレーズがいくつも登場したのは、30巻という区切りを迎えて、作者のいがらしみきおが、そうした懐旧の情にひたりたい読者の気持ちをきっと汲んでくれているのだと思う。

 あとは、ボーズくんを久しぶりに見たいなあ。プレイリードックちゃんとかも。これはまた、40巻でのお楽しみかな(笑)。

 あ、そうそう、前巻で旅に出たアライグマくんは無事に帰還しました。これがまた、さりげなく少年の成長物語になってて、実にいい話ではねいでぃすか

※ 29巻の感想

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2008年3月10日 (月)

人は人を殺すことに耐えられるか―「手を汚すことなく「存置」「廃止」を叫んでいるあなたへ」論座2008年3月号

 人が他人の生命を奪う行為を許さないのが、われわれの社会を成り立たせている法の原則だ。しかし同時にわれわれの社会には、死刑という制度が存在する。それは、一定の要件が満たされれば「国家」が人の生命を奪うことを容認する制度だ。「国だけが人を殺すことがある」というのが日本の法が決めた枠組みである、

 でも、国というのはお化けのようにふわふわと勝手に活動してくれるものではない。様々な制度を実際に動かすためには、人が現実的に関わらなくてはならない。その意味で、死刑という制度もまた、やはり「人が人を殺す」仕組みなわけである。

論座 2008年 03月号 [雑誌]
Book
論座 2008年 03月号 [雑誌]
販売元 朝日新聞社出版局
定価(税込) ¥ 780

 そんな当たり前のことに今更ながらはっとさせられた。論座2008年3月号の坂本敏夫「手を汚すことなく「存置」「廃止」を叫んでいるあなたへ 元刑務官からの報告」を読んでのことである。

 これは、死刑がどのように執行されているのかについて、ある死刑囚への死刑執行命令が下ってから、死刑が執行された後の処置までを丹念に書いたものである。追いつめられた死刑囚の心理もさることながら、執行に関わる刑務官へとかかる大きな心理的負担がなんとも痛ましい

 印象的な事実がいくつかあった。たとえば、死刑囚が最後に立つ刑壇の床を開く(これで死刑囚は落下し絞首される)ためのボタンは複数存在する。

刑壇を下方に開き、死刑囚を地下室に落とすための電動ボタンが5個ある。そのうち一つを刑壇と接続させる。…

何番をつないだのかは、永遠の秘密だ。

 誰の押したボタンによって死刑が執行されたのか、本人たちにはわからないようにする配慮である。

 また、死刑執行当日、死刑囚を何も知らせずに舎房から連れ出さなくてはならない。これから死刑になると悟られては何が起こるか分からないため、普段の毎日とさも何も変わらないように「騙す」のである。当然その役目は、ずっとその死刑囚の処遇を担当した刑務官が負う。

 刑務官は、死刑執行を待つ何年もの間、死におびえる死刑囚が正気を失わないように親身になってカウンセリングを何度も繰り返すそうだ。そうして自分を信頼してくれるようになった死刑囚を、その刑務官は最後の最後の場面で「騙す」のだ。

 これは…なんという苦痛だろうか。実際に、良心の呵責に耐えかねて精神に変調をきたし、辞職した刑務官もいるという。

 普通の人は、人を殺したという事実に耐えられない。それが電動ボタンを押すという直接的行為であっても、騙して処刑場に連れていくという間接的行為であっても、「人殺し」に荷担したという事実が精神を蝕む。

 だから死刑を残すべきとも廃止すべきとも、ここでは言えない。死刑執行が刑務官にとって酷なことになっているということと、死刑制度の可否は、本質的には別の問題である。

 しかし、現在の死刑執行方法が、科学文明を謳歌する先進国家にふさわしいものなのか、そのことに関しては深く深く疑問が残った。

[MEMO]------------------------------

*この論座の死刑特集は、浜井浩一「死刑という「情緒」の前に データで見る日本社会の実情」も、死刑の予防効果を考える上でとても興味深かった。

 この中で、アメリカの学者が、統計上、死刑には抑止効果よりも殺人を助長する効果の方がはるかに大きいという分析を示したとか書かれていた。これはどういう分析なのかな。文中の別の箇所には、英米の犯罪学会においては、他の要因を統計的にコントロールすることが困難なので、死刑の犯罪抑止効果は科学的に確認できないとされているとあるのだが、それなら、抑止効果がないことを確認するのも難しそうなのだが。

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2008年3月 6日 (木)

作者死すとも作品死せず―「新ナニワ金融道 復活銭闘開始編」

 もう10年以上前に終了し、作者もすでに亡くなった金融マンガの金字塔。その続編が出ていた。

Book 新ナニワ金融道 復活銭闘開始!!編 (GAコミックス)

著者:青木雄二プロダクション
販売元:グリーンアロー出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 オリジナルの「ナニワ金融道」は、非常にエポックメーキングな作品だった。金にまつわる人間の赤裸々な欲望を、法律的な裏付けというか多彩な法の抜け道とともに活写するスタイルは、定規で引いた直線を一切拒否する偏執的ともいうべき猥雑な描き込みとともに、同系のフォロワーをいくつも生むほどにマンガ界にインパクトを残した。

 しかし「ナニワ金融道」は、話としてはいくらでも続きが描けそうな中途半端なところで終わってしまった。この先、主人公はどのように闇金業界をのし上がっていくのかがとても気になったものである。

 そこで今回の復活。まことに大歓迎である。もとの作者の青木雄二は亡くなったが、その遺志を継ぐ(?)青木雄二プロダクションから作品が提供されることになった。絵がちょっとこなれていたり、ギャグがやや小洒落ていたりするという微妙な差異はあるが、オリジナルからの設定のつなぎ方がうまく、昔のファンは変わらず楽しめる。主人公の灰原が逆境からスタートし、上司の桑田が作った新しい会社で新しい仕事を始めるところも、いかにも「新」ナニワ金融道という感じがしてよい。ラストでは、あの懐かしいキャラクターも登場するし。

 そしてなんといっても、作品のテイストがまさしくオリジナルのそれなのだ

 たとえば、借金で首が回らなくなった会社の社長が、営業譲渡という合法な手段を悪用して負債を逃れようとする。債権の回収に来た主人公たちにいけしゃあしゃあと吐くセリフがこれ。

「な なんとか返済の道筋を立てて… 決しておたくを不義理にはしませんから!

 しかしそれが単なるおためごかしなことは百も承知の、桑田のセリフ。

「なに… 法が許すんやったらあらゆる手ぇ使こて生き残る権利が誰にでもありますんや。

おたくもそうなさったらええがな!」

 …法ってそういうもんか?(笑)

 この作品を読んでいると、「法律ってほんと善良な人が作ってるんだなー」と実感する。そういう人は頭はいいんだけど、自分の作った仕組みがいかに現実的に悪用できるかまでは想像がはたらかないんだね。これは頭の良し悪しじゃなくて性格の問題。何か法律を作るときは、その悪用に長けた人たちの意見も参考にしたら?防犯対策のアドバイスを元スリの人たちから聞くみたいに。

 ともあれ、法の「上澄み」でなく、底に「澱」のように溜まった数々の抜け道を、これほど面白く見せてくれるマンガはなかなかない。作者が死んでも同じテイストで作品が出せるなら、中途半端で終わることもないでしょう。今度は最後まで続けるんやで!

「いつだったか 大阪一の金融マンになろうって話したのを… お前覚えとるか?

ここから もいっぺん それを始めようやないか」

[MEMO]------------------------------

*ただ掲載誌が「ケータイ☆まんが王国」という、およそ盤石と思えない媒体なのが不安。大体にして、単行本に巻数が設定されてないからね。「復活銭闘開始編」ってなんだよっていう。この先、何巻も何十巻も出すつもりがあるとは到底思えない。せめて「1巻」と名乗って欲しかったなあ。

*しかし朱美さんはええ女やで。これほどヌードやベッドシーンがそそられないヒロインも珍しいけど(笑)、逆にヒロインであることにこれほど説得力のあるキャラクターもそうはいないと思う。

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