心と体

2008年3月13日 (木)

万物の霊長たる能力とは―「アヴェロンの野生児」

 人間の能力は、他の生物と比べ、主に知的な側面において優れている。

 「ジョジョ」の中で、人間をやめるぞと言って石仮面を被ったディオのどこが発達したかといえば、身体能力なわけだ。裏を返せば、知的能力はこれ以上伸ばしても役に立つところがあまりない(少なくともマンガ内では)という荒木飛呂彦の判断が、意識的か無意識的かはわからないが、あったのではないかな。つまり、人間のままでも知的能力は相当高いということがそこには表れている。

 「ヒト」は、そうした知的能力の高さをもって、「万物の霊長」と呼ばれるわけだ。

野生児の記録〈7〉新訳アヴェロンの野生児 (1978年)
Book
野生児の記録〈7〉新訳アヴェロンの野生児 (1978年)
販売元 福村出版
定価(税込) ¥ 945

 幼くして森に捨てられ、11、12歳くらいで発見されたとみられる「アヴェロンの野生児」の話は、高校でも習うくらいに有名だ。この野生児の研究結果をどうとらえるかについては専門的な議論があるが(末尾のMEMO参照)、それでもなお興味深いエピソードである。

 本書によれば、当時の有識者たちにはこんなことを言う者もいたという。

この野生児の教育はたかだか数か月しかかからないだろう、その時には彼から過去の生活について興味津津の話を聞くことができるに相違ない。

 しかしそうは問屋がおろさなかった。本書の著者である軍医イタールが6年をかけた補償教育も、この野生児(通称ヴィクトール)を「普通児」にすることはできなかった。あとがきによれば、最終的に教育は中止され、ヴィクトールは推定40歳で亡くなったという。

 教育が中止された理由は、思春期に入ったヴィクトールの発作的凶暴性に手が付けられなくなったからだというが、こうした性向を抑えるのに必要な理性や判断力が十分に備わらなかったという一事をとっても、補償教育の効果に限界があったことがうがかわれる。

 とはいえ、まったくの野生状態であった最初期から比べれば、随所に進歩は見られるのだ。イタールは、身体的・精神的能力で著しい欠陥のあったヴィクトールの最初の状態をこう表現している。

彼は自分の種の最下位であるばかりか、動物の階梯の最後に位置していたわけです

 そこから、イタールの粘り強い教育が始まる。本書には、1801年初頭にヴィクトールへの教育が開始されてから1年弱の経過をまとめた「第一報告」と、その後の6年間の成果をまとめた「第二報告」が収められている。順に追っていくと、ヴィクトールができるようになったことと、結局できなかったことが明らかになる。まあ後者の方が圧倒的に多いわけですが…。

 まず、最初は感覚がおそろしく鈍感だった(嗅覚を除く)。冷たい雨の中で何時間も過ごしたし、焼けた炭や熱湯に手で触れてもなんともなかったという。こうした皮膚感覚は、熱い風呂に繰り返し入れることで、(神経の感受性が高まったためか)向上したという。

 味覚も訓練によって改善した。最初は、普通の人なら胸がむかつくような食べ物を汚物にまみれた手で食べていたのが、6年間で多くの料理を味わえるようになったいう。だが、グルメ的な偏食はなく、飲み物としては水を飲んでいる時がいちばんうれしそうだった(笑)という。

 視覚や聴覚は、器官としては備わっているのに、そうした情報を処理することが普通にはできなかったようである。たとえば聴覚については、母音の中で最初は「o」(オー)しか聞き分けられなかった(ヴィクトールと名付けたのはそのためである)。その後の教育で改善はしたものの、単音節の単語を数語聞き分けられるようになった、というのが第二報告に書かれていた成果である。

 もっと高度な知的能力はどうか。言葉を使うことに関していうと、まず話し言葉は、それに必要な音を口から発することが難しかった。第一報告の時点で、「u」を除く母音と3つの子音しか調音できないと書かれており、第二報告では、

治療を継続し時が流れても何の変化もおきないのを知り、とうとう、話しことばを与える最後の試みに終止符をうち、生徒を不治の唖のままに放置したのでした。

…とある。

 一方、書き言葉はそれよりずっと良く、具体名詞をおぼえ、それに付く形容詞をおぼえ、動詞もいくつか理解したという。それらを見て意味がわかるだけでなく、書くこともできたと述べられている。

 またこのことからもわかるように、記憶能力はある程度保たれており、訓練の中で向上もした。第二報告には、別の部屋から物を持ってくるように頼まれて、きちんとそれを達成できたと書かれている。「え、その程度?」と拍子抜けされる人がいるかもしれないが、そこまでずっとヴィクトールの悲しいありさまを見続けていた私はかなり感動したことを申し添えておく(笑)。

 とまあいろいろ書いてきたが、こうしたすべての訓練・教育のカギになったのは、感情の力なのだった。最初に彼が感じることのできた感情は、喜びと怒りの二つに限られていた。とても悲しい目にあっても、涙を流したことさえなかったという。

 しかし彼は、しだいに多様な感情を見せ始める。とくに、身辺の世話をしてくれるゲラン夫人に少しずつ愛着を示すようになったのは重要だ。施設を逃げ出して浮浪者として逮捕され、二週間ぶりにゲラン夫人と再会したときの話や、ゲラン夫人が夫を亡くした後の話などは、このヴィクトールが主人公だからこその感動的なエピソードである。この他にも感謝や友情といった複雑な感情を、彼がある程度理解し表出できたことが、訓練の助けになっていたことが本書からは読み取れた。

 ヴィクトールが最終的に「普通児」の水準に達しなかったのは悲しいことであり、適切なタイミングで教育を授けることの重要性を示している。だがそれだけでなく、この「アヴェロンの野生児」は、ヒトが「万物の霊長」たるためには、どんな能力が必要かを教えてくれていると思うのだ。

 それはおそらく、道具や言語を使えたり計算ができたりという知的な能力だけではないのだ。他の個体とスムーズに交流しながら、生存と種の保存に適した社会を作り上げるためには、感情の能力を欠くことはできない。感情がある程度備わったからこそヴィクトールの知的能力には進歩がみられたし、逆に感情面でどうしても普通児より欠落する部分があったからこそ、社会に出られるほどの知的能力に到達できなかったのだと思われる。

 両者が高度にそろってこその「万物の霊長」ではないか、ということを、知育偏重の向きには訴えたいと思った次第。

[MEMO]------------------------------

*発達心理学関係の本では、ヴィクトールはもともと知的障害があったか自閉症だったのではないかと考えられていて、健常児であれば補償教育でもっと良好な結果が得られたのではないかと書かれていたりする。

*DIOは仮面を付けて身体能力がアップしてたけど、第二部のカーズはさらに究極生命体になって知的能力もアップしてたような気がする。「究極生命体のヒミツ」的な大図解にそんなことが書いてあったような…。手元に単行本がなくて思い出せん。

ジョジョの奇妙な冒険 (2) (ジャンプ・コミックス) ジョジョの奇妙な冒険 (2) (ジャンプ・コミックス)

著者:荒木 飛呂彦
販売元:集英社
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2007年12月29日 (土)

一刻も早く治さなければならない、という重圧―「薬でうつは治るのか?」

 ここ数カ月、うつ病の治療などに用いられる「リタリン」依存症のニュースが目についた。

 野村進「救急精神病棟」にもあったが、「精神病は治る」というのが現在の医療関係者からのメッセージである。その一端には、治療薬の進化に引っ張られる形で発展を続ける、薬物療法への信頼があるのだと思う。

 ただ、精神病を治すための薬で依存症になってしまったのでは、本末転倒ではないか。どうしてそこまで患者は薬を服用し、また医者は処方してしまうのか。精神疾患に対する薬の役割について考える手がかりとして、本書を読んだ。

薬でうつは治るのか? (新書y) 薬でうつは治るのか? (新書y)

著者:片田 珠美
販売元:洋泉社
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 いちばんわかりやすかったのは、精神医学における「2つの革命」という視点だった。ひとつは、1952年に初めて精神に本当に作用する向精神薬(クロルブロマジン)が発見されたことを出発点とする、薬物医療。もうひとつは、精神疾患ごとの症状をとにかく分類・記述し、誰でも同じ診断を下せる状況を作った、診断マニュアルDSM-Ⅲ。これら2つの革命の結果、患者の生活史をさかのぼって病気の原因を根気強く探ってゆくそれまでの精神療法の手法は勢力を失い、「病因はなんでもいいから、症状を分類して、それが薬で改善すればいいよね」という治療が主流となった。

 とくに薬物療法の影響力はすごい。本書では、抗うつ薬の進化の歴史をうまくまとめてくれていて、その時々の新薬の「薬効」が明らかになり、爆発的に普及してゆくまでの過程がよくわかる。現在うつ病の治療に用いられるSSRIやSNRIといった薬の仕組みやメリット(副作用が少ないこと等)も説明されており、それらを処方する医者・処方される患者の気持ちもわかる気がする。

 だが、薬物治療は万能ではない。筆者は以下のように問題点を指摘する。

こうした抗うつ薬による治療に抵抗するうつ病が増えているのも事実であり、実際、精神科医の間でも、うつ病の慢性化(「遷延性うつ病」という概念もある)、再発、抗うつ薬への依存は大きな問題になっているのである。(P. 17-18)

 慢性化、再発しやすい病気であれば、どうしても薬の投与期間が長くなる。抗うつ薬の服用を急に中止すると、心身の変調(離脱症状)を訴える患者さんは多い。そのため、医者は維持療法(再発予防のために一定期間薬を服用する)を勧めるという。その期間は3年、5年、あるいはほぼ一生と、医者によって様々。どの期間が妥当であるにせよ、どれも長い。素人考えでは、この間に依存が形成されなければおかしいんじゃないかというほどの長さだ。

 冒頭ちょっと出したリタリンだが、これは本来うつ病の薬ではない。だが、本書でもうつ病に関連して依存を形成しやすい薬として紹介されている。それによれば、本来は睡眠障害であるナルコレプシーの治療に用いられる薬だが、その覚醒作用に着目して、抗うつ薬では不十分な難治性、遷延性うつ病に処方されることがあるという。

 この薬が効いている間は気分がいいが、切れるとひどく落ち込み、再び気分を上げるためには、服用の頻度と量を次第に上げなくてはならなくなる。まさに「麻薬」である。新潮45の11月号に、メンヘル系サイトでリタリンを違法譲渡した事件をまとめた記事があった。そのサイトのメンバーは言う。

リタリンって、始めは世界が変わったって思うくらい効いていたのに、最近はリタスニしないとうごけない状態。リタがあって、楽しかった頃にもどれたらなぁ。でも、もし戻れたらリタスニはしないだろうなぁ~

※「リタスニ」とは、リタリンをスニッフ(粉末で鼻から吸う。飲むより効果があるとされる)すること。

 精神病の闇を抜けて現実を生きるためには薬を飲み続けなくてはならないのだ。そうして、薬をどんどん飲んでまでも早急に現実に復帰しなくてはならないというプレッシャーが世の中に蔓延しているのだ。

 そして、そうしたプレッシャーこそが、現代人をうつ病にするのである。つまり、人をうつ病にするのも社会の重圧なら、うつ病から一刻も早く立ち直れ、と命じるのも社会の重圧なのだ。

 この点に関連して、「薬はうつで治るのか?」の第4章は興味深かった。高度成長前の日本社会のような「あれはしちゃダメ」「これもダメ」的な禁止のプレッシャーが強かった社会では、その抑圧に苦しんだ個人の病理が「神経症」となって現れた。一方、現代の自由と自主性と自己責任を重んじる能力主義の社会では、自分の能力や行動を賦活できない個人が「うつ病」として取り残される、という見方である。

 そんな社会の中にいる患者にとって、自分の生き方と向き合い、時間をかけて少しずつ良くなることをめざす精神療法は、実にまどろっこしい。そしてそれは医療を現実の「仕事」にしている医者にとってもまた同様である。筆者は、以下のように日本の保険医療制度の欠陥を指摘する。

患者さんの話を何分聞いても、健康保険で請求できる「精神療法」の点数は変わらないので、一人あたりの診療時間をできるだけ短くして、数多くの患者さんを診察し、なおかつ大量の薬を処方してもうけようという医者がいるわけである。

 一刻も早く現実社会に戻らねばならない、という重圧に、患者も医者も毒されてしまっているのだ。

[MEMO]------------------------------

高橋祥友「自殺の心理学」にも、薬物療法偏重を批判する本書と同様の記述があった。

薬物療法と精神療法はあくまでも車の両輪のようなものと考えてください。よく私は次のように説明します。

「あなたのもともとの力が十だったとすると、今はそれが二か三くらいになってしまっていると考えてみましょう。薬を飲むことでその力を五くらいにできれば上出来です。残りの五はあなたが人生で抱えている問題を一緒に考えていくことで取り戻していきましょう」(P.171)

*リタリンは、最近の乱用問題を受けて、効能からうつ病を適応除外とする決定が厚労省から出された。リンク先の記事を書いている記者は自身の病歴も明かして記事にしており、その率直で真摯な報道姿勢に触れるだけでも価値があるので読まれたし。

*先日TBSのニュース23で「生活破壊」という特集をやってて、生活保護水準で過酷な暮らしを送る人々をレポートしていた。その中に、母子家庭で母がうつ病である家族や、セクハラを受けて退職する前後にうつ病となった30代の女性がいた。この人たちが病気を治して現実社会に戻っても、そこから続く道がない。役所は自分でなんとかしろといい、生活保護が受けられないが、さりとて満足な働き口もない。パートやわずかな貯金だけを頼りに生活するほかない。

 それはまるで、切れる寸前の細い糸を毎日切れぬように祈りながらたぐるような暮らしだ。「自由」が高揚しすぎて「自己責任」というモンスターが召喚され、一度でも足のすくんだ人を、生贄として次々と喰らっているのが今の日本だ。

新潮45 2007年 11月号 [雑誌] 新潮45 2007年 11月号 [雑誌]

販売元:新潮社
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2007年9月29日 (土)

もし医者も患者も「死」を容認したならば―「破裂 上・下巻」

 医者も患者も、「生と死」をめぐって、それぞれに宿命的な二律背反を抱えていると思う。

 医者は患者の命を救うために努力する。しかしその裏で、たくさんの実験動物を殺し、技術が未熟なうちは人の命さえ奪うことがある。

 一方、患者は生きたい。誰だってそうだ。でも、老境に入ったとき、ボケるとか寝たきりとかでみっともない姿になって他人様に迷惑をかけるくらいなら、いっそポックリ死にたいと思う人も多いだろう。

 ふつう、両者は「生」への希求において一致して協力する。だがひょっとすると、「死」への容認でも両者の利害は一致することがあるのではないか?

破裂 上 (1) (幻冬舎文庫 く 7-2) 破裂 上 (1) (幻冬舎文庫 く 7-2)

著者:久坂部 羊
販売元:幻冬舎
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 この小説は、「大学病院のウラは墓場」の作者による小説第2作だ。あの本では医療現場が抱える大小さまざまな問題点を医者ならではの視点で冷静に分析してあって、考えさせられるものがあった。

 日本はなぜ長寿世界一なのか。作中に登場する一人の医師が興味深い説を唱える。

「日本の老人は、脳の血管は弱いからすぐ脳梗塞や脳出血で寝たきりになるが、心臓が強いから、寝たきりになってもなかなか死なないんですよ」

 その真偽はさておいて、長寿+出生率の低下で、今の日本は未曾有の高齢化社会であることは間違いない。人口ピラミッドが、逆さになったごときの状況である。このピラミッドを正常化するにはどうしたらいいのか?

 普通の答えは「出生率を上げる」だろう。だが、この小説に登場する厚労省の官僚・佐久間の答えは違う。「老人を減らす」だ。厚生族のドンと言われる国会議員の後ろ盾を得て、彼は密かに「プロジェクト天寿」と題した計画を立ち上げる。

 その最終目標は、「安楽死の合法化」である。その実現に向けて彼が繰り出す方策は、医療施設の許認可、研究資金の配分、マスコミの情報操作など多岐にわたる。官僚が本気になったら何でもできるんじゃないかと思わされる。

 そこに、医療ミスの内部告発に臨む医師と看護師、正義感と功名心に駆られた医療ジャーナリスト、教授選を控えて自らの汚点を隠そうとする医学部の助教授、医療裁判に賭ける遺族などが複雑に絡み合う。彼らの思惑で何度も物語はうねり、上・下巻を読み通すのもまったく苦にならない。

 物語の最後で、ある登場人物は救われ、ある登場人物は闇に堕ちる。それらの結末には、医療における「死」をいかに扱うべきかへの作者のメッセージが込められているように思う。それは、「死」への容認において医者と患者が安易に一致することをよしとしない、作者の医師としての意思表明ではないだろうか。

[MEMO]------------------------------

*安楽死とか医療ミスとか、本書で取り上げられている医療をめぐる問題は、本当に一筋縄ではいかないね。医療ミスについて本書では、(実際にあったことかどうかはわからないが)医療現場でのずさんな実態がいくつも紹介されている。

 乳癌手術中、リンパへの転移を見つけたが、摘出するのに鎖骨を外したりするのが面倒だから手術を終えるとか。手術後に残った針をカウントして数が合うか確認するとき、行方不明の針が出てきても強引にOKと記録に書いてしまうとか。

 私は、こうした怠慢や高慢から生まれる、「医の本質」に背く明らかなミスは咎められて仕方ないと思う。

 ただその反面、「医療ミス」というものの中には医者を責められないものがたくさんあるとも考えている。人は誰しもミスを犯すものであるし、またミスを誘発するような医療制度の欠陥も存在するからだ。本書で医療裁判の被告となった医師の言葉にも、また考えさせられるものがあった。

治療に百パーセントを期待されたら、とても保障などできない。医療にはあらゆる不確定要素がつきまとう。命を失う罪は重い。しかし、命を救ったとき、同じだけの評価があるのか。命の賠償金が五千万なら、救命の褒賞も同じにしてほしい。かけがえのない命を救ったのだから。

破裂 下 (3) (幻冬舎文庫 く 7-3) 破裂 下 (3) (幻冬舎文庫 く 7-3)

著者:久坂部 羊
販売元:幻冬舎
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2007年9月25日 (火)

親子は似るからいいのだと思う―「『親子は似る』のウソ・ホント」(日経Kids+ 2007年10月号)

 ある「体のつくり」や「心のはたらき」を遺伝子が決めている、ということと、親と子が似る、ということは同じではない。

  「日経Kids+」の10月号に、この両者の違いをすっきり説明して、親から子への遺伝に関する誤解を解くようなわかりやすい特集が組まれていた。

日経 Kids + (キッズプラス) 2007年 10月号 [雑誌] 日経 Kids + (キッズプラス) 2007年 10月号 [雑誌]

販売元:日経ホーム出版社
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 その人が持っている遺伝子で、体や心の有りようがある程度決まることはあるけれども、子どもが受け継いだのは、父親と母親の遺伝子の半分ずつだ。その組み合わせ方によって、親たちとは違った新たな性質が生まれることは十分にある。これが大原則だ。

 この雑誌の特集は、遺伝の基礎知識から始まって、語学・芸術の才能、頭の良さ、性格・気質などの「心のはたらき」の遺伝と、体形・体格、体質、運動能力などの「体のつくり」の遺伝を網羅的に紹介している。専門的に高度な踏み込み方はしていないが、各分野の専門家にしっかり話を聞いていて、「いい加減な内容にはしないぞ」という姿勢がうかがえる。

 「心のはたらき」については、以前紹介した安藤寿康「心はどのように遺伝するか」と内容が重複するところもある(彼自身も取材を受けている)。新しく知ったことで興味を引いたのは、本筋から少し逸れるけど、子どもの頃むちゃくちゃいろんなことを記憶できたよなあ(今はさっぱり)、と経験的に感じてたことに、科学的説明がなされていたこと。

 それは、長期学習が成立する際に脳内で重要な役割を果たすと考えられているNMDA受容体(ナトリウムイオンとカルシウムイオンを通す。カルシウムイオンが通らないと神経回路の長期増強が起こりにくくなる)に、胎児型と大人型があるという説明だ。胎児型は非常に効率よく記憶できるのだが、成長するにつれてその組成は、効率の悪い大人型に自然と変わってしまうという。これがおそらく、子どもの頃の驚異的な学習能力に関わっているのだろう。

 「体のつくり」は知らないことが多くてタメになった。親子間の相関を調べると、子どもの身長は同性の親と相関し、体重は母親と相関する。また、細胞の代謝に関わり運動能力にも影響するミトコンドリアは、原則的に母親由来だという。てことは、ヤワラちゃんの息子さんはかなり期待できるねえ(笑)。

 あと、双生児研究から、50m走や幅跳びのような瞬発系の運動は遺伝的要因が強く、1500m走や反復横とびなどの持久系の運動は遺伝的要因が弱いことがわかっているらしい。

 これは、瞬発力に関わる速筋と、持久力に関わる遅筋の割合は遺伝で決まっていることに関係がある。トレーニングで筋繊維を大きくしたとき、速筋は遅筋のような性質に変わってしまうのだ。そして逆は起こらない。つまり、持久力はトレーニングという後天的な要素で伸ばしやすいが、瞬発力は持って生まれた速筋の量が大きく影響しているということだ。

 その他、ハゲるかどうかや、まぶたが一重になるか二重になるかといった、様々な「体のつくり」が親から子に遺伝する仕組みが紹介されており、なかなか飽きさせない特集になっている。

 「みにくいアヒルの子」じゃないけど、やっぱり親の素朴な感情として、自分と似ててこそ子への愛情も強まるというものだろう。ちょっとうがった見方かもしれないが、親からの養育を確実にするという意味で、遺伝子をかけ合わせて両親にほどよく似た個体を作るという両性生殖の仕組みは、ほんとよくできてると思うわぁ。

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2007年9月 8日 (土)

心理面から見た絶望的「冤罪システム」―「『うそ』を見抜く心理学」

 タイトルから、他人が嘘をついているときにどう見破るか的な本を思い浮かべるが、さにあらず。刑事事件の取調べの中で語られる嘘を暴くのが本書の内容だ。

 しかもその嘘は、犯人が自分を守ろうとしてつく「さもしい嘘」ではない。無実の人間が長く過酷な取調べにさらされ、無力感に打ちひしがれて、やってもいない罪を認めるという「かなしい嘘」がテーマである。

「うそ」を見抜く心理学―「供述の世界」から (NHKブックス)
Book
「うそ」を見抜く心理学―「供述の世界」から (NHKブックス)
著者 浜田 寿美男
販売元 日本放送出版協会
定価(税込) ¥ 1,124

 これはすなわち、冤罪の場面である。本書は、そこに必ず付きまとう「かなしい嘘」がなぜ生まれてしまうのかについて、取調べをする側とされる側の心理を鋭く分析したものだ。

 単に理屈を述べるだけでなく、豊富な事件例をもとに説明がなされるので、非常に具体的でわかりやすい。というか、怖い。まるで蟻地獄のように無実の人間を引きずり込んでいく「冤罪システム」が。

 無実の人が裁判を経て有罪になるなんてのは、普通に考えれば不自然なことだ。その不自然さには、大きく分けて2種類あると思う。

 ひとつは、「無実の人間が罪を認めて自白するのはおかしい」ということ。やってないなら認めなきゃいいじゃん、と。被告人がいったん犯行を認める自白をしたが、その後否認に転じたという報道をたまに目にする。そのとき、「じゃあなんで一度認めたの?」「ほんとはやってるから自白したんじゃないの?」という疑問が浮かぶ人も多いと思うが、それはこの不自然さを感じていることの裏返しだろう。

 もうひとつは、「無実の人間がすべての証拠や動機について矛盾なく説明できるのはおかしい」ということ。やってないんだから犯行内容も正確に知らないはずで、自白しようもないじゃん、と。もし変な自白が取られたとしても、裁判には被告人の味方である弁護士や、中立の立場で判断する裁判官もいるんだから、どっかで矛盾を見つけられるはずでしょ、というのが普通の感覚だと思う。

 しかしどちらの不自然さも、「冤罪システム」の中では特におかしいことではなくなる。

 前者の「なぜ自白するのか」については、まず、過酷な取り調べが被疑者を精神的に追い詰める。しかも、それに抵抗して否認を続けると、ひどい目にあうのである。

否認をつづけるかぎり、小さな事件でも身柄は外に出られないまま、起訴に持ち込まれ、保釈はつかず、裁判でも実刑を受ける確率は高くなる。大きい事件では情状酌量の余地なしとして、それだけで刑が重くなる。無実であっても、結果的には自白している方が有利だと言わねばならない状況が現実にあるのである。

 さらに、実際の犯罪者と違って、無実の人間には特殊な心理がはたらく。ちょっと長いけど出色なので全文引用する。

自分は問題とされている犯罪をやってもいないのに逮捕され、厳しい取り調べを受けている。そのこと自体が非現実的なことである。ここで自白をすれば有罪にされて刑罰を受けるかもしれない、死刑になるかもしれないということは、理屈ではわかっても、それを現実感をもって受けとめることができない。…だからこそ、ここでたとえ自白しても、自分はやっていないから裁判所でちゃんと言えばわかってくれるはずだ、とも思う。自分はやっていないという確信のゆえに、かえって自白への抵抗感は弱くなる。

 かくして無実の者は自白するのである。

 だが、上の引用にもあるように、最終的に裁判官が無実とわかってくれればいいのだ。もうひとつの不自然さ、「無実の人間が犯行を説明するときの矛盾」が裁判の中で明らかになれば救われるのである。

 しかし、ことはそう簡単ではない。警察、検察は裁判を有罪に持ち込むために抜かりなく準備をする。犯行内容をよくわかっていない(おそらく)無実の人間を取調官が手取り足取り導きながら、いかにして破綻のないストーリーを作っていくのかが、本書の実例でよくわかる。

 そうした、いわば「でっち上げ」を、裁判官は見抜けないのか?

 もちろん、見抜くときもある。でも、見抜けないときもある。その原因は、裁判の場でしばしば証拠採用の決め手となっている、「臨場感」のワナである。真実の体験者でなければとうてい述べえないような臨場感がある、という理由で自白供述の信用性が認定されたりするのだ。だが、取調べの中でみんなで知恵を出しあえば、そんな臨場感はいくらでも作り出せる。

 しかも、裁判官の人の子だ。誰にでもはたらく、ある心性を止められない。これを指摘したのもまた本書の白眉だと思う。それは、「臨場しようという構え」である。

 人は、自分で体験していないことを、言葉として受け取ってその場にいるかのように想像をめぐらすことができる。できる、というよりも、そうしようと常に待ち構えている。直接体験できないことも、臨場して味わうことによって、深く理解することができるからである。

(話の聞き手は)体験の当事者でないために、それを理解しようと、多分に想像力を働かす。そうして臨場感あふれる描写にしばしば乗せられ、話し手と同じように空間的、時間的パースペクティブを越えて、語られている現場についつい臨場してしまう。

 裁判官が自白の臨場感を見誤るときとき、その裏にはこうした万人共通の心性が影響していると思われる。

 …ということで、無実の者でもとにかく捕まえて来て、根負けさせて自白に追い込み、臨場感のある供述をでっち上げて起訴し、裁判官をうまく欺けば、有罪判決いっちょう上がりという、これが「冤罪システム」である。

 もちろん、こんなことはあってはならない。例外的な事例だ。だが本来、例外としてもあってはならないことなのだ。

 狭山事件、帝銀事件、甲山事件、袴田事件…。本書で取り上げられた数々の事件での供述作りの杜撰さと、その後の成り行きのむごさを見て、その思いを強くした。

[MEMO]------------------------------

*最近報道された冤罪事件では、富山で再審が始まった強姦事件もひどい。こっちの記事では、無実の人間から調書をでっち上げていく様子がよくわかる。

 このエントリでは、取調官がなぜそんな理不尽に及ぶのかは書かなかった。それは、本書にそうした記述が少なかったからだ(それでも、前に紹介した「証言の心理学」よりは言及があった)。そこに踏み込むとややもすれば俗っぽくなりすぎるので、この手の本では扱わないのかもしれない。

 そういうときは、フィクションを見るのもいい。朔立木「死亡推定時刻」は、虚偽の自白が作られる過程と、そこに関わる取調官の内面を知るのに、非常に有用な小説である。

*冤罪を疑われる事件の代表例である袴田事件については、1審を担当した元裁判官が「無罪の心証があった」と異例の告白をしている。

 本書によれば、確定死刑囚として獄中に40年近くとどまる袴田巌氏は、いま精神をおかされているという。もし本当に彼が無実なら(本書を読んだ限りでは、私はそうした印象をもつが)、何度も審理を繰り返しながら彼を牢獄に送り、今なおその中に閉じ込めている日本の裁判制度とはいったい何なのかと思う。

*精神鑑定で不起訴になったり責任能力なしと判断されたりすることに対し、世間の不満が高まってきている印象がある。だいたい、あれってどこまで確かなモンなの?という根本的な疑問もあるだろう。

 そういった向きは、本書193~196ページを一読されることをおすすめする。鑑定人の想像力が縦横無尽にかけめぐり、思い込みに満ちた結論が吐き出されることがあるという、よい見本である。これは果たして例外なのか、それとも…?

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2007年8月17日 (金)

「防げる」と「防げた」は違う―「自殺の心理学」

 自殺者が減らない。いったい、自殺は防げないのだろうか?

 これについて、「自殺する人はどうしたってするのだから仕方ない」という意見を聞くことがある。それは一面では正しいが、別の面からいえば間違いであると思う。

自殺の心理学 (講談社現代新書) 自殺の心理学 (講談社現代新書)

著者:高橋 祥友
販売元:講談社
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 私の周囲でも自ら命を絶った人が何人かいる。それなりのトシになったら、近しい人間の自殺を、多かれ少なかれ誰もが経験していると思う。

 そんなとき、「こうなる前にどこかで止められなかっただろうか」との無念が胸をよぎらない人はいないだろう。と同時に、「止めようと思って止められるものなのだろうか」という疑問も浮かんでくるに違いない。

 自殺問題に取り組んできた精神科医の手になる本書は、「自殺は防げる」というメッセージで全体が貫かれている。「自殺する人はどうしたってするのだから仕方ない」という弱腰は微塵も感じられない。専門家はそうやって頼もしく構えていてほしいものだ。

 一方、われわれ一般人はどうすればいいか?もし身近な人に「死にたい」と打ち明けられたら?

 本書の内容からすると、基本姿勢は「軽視も諦めも禁物」という感じだと思う。

 まず、自殺を口にする人ほど死なない、といった「軽視」は絶対によくない。自殺のほのめかしや、別れの用意ともとれる行動は、その後の自殺に高い確率でつながるという。先日読んだ野村進「救急精神病棟」にも、乱雑な部屋に引きこもっていた女子高生が外出して行方がわからなくなったとき、部屋が見違えるほど整頓されていて、数時間後、飛び込み自殺の報が入ったというエピソードがあった。(P385)

 すなわち、本書にあった以下の一節のように考えるべきなのだろう。

自殺の危険を過小評価するよりも過大評価するほうが実害は少ないのです。「自殺の危険がない」と誤って判断したために取り返しのつかない事態が起きるほうがよほど恐ろしいのです。(P55)

 誰かに「死にたい」「自殺したい」と言われたとき、自分は彼・彼女に選ばれてその言葉を聞いているのだ。そう思えば、その言葉たちを軽々に扱うわけにはいかなくなるだろう。

 もうひとつ、こちらからの働きかけは無駄だ、といった「諦め」も絶対にしてはいけない。著者は、自殺の危険が高い人でも確固たる死の覚悟をもっている人はほとんどいないとしている。むしろ、生と死の間で心が激しく動揺しているのが普通だ、と。また、自殺と密接に関係する精神的問題(とくに「うつ」)は、治療することが十分に可能であることも述べている。すなわち、こちらの働きかけで「自殺を思いとどまらせる」余地は確かに存在するのだ。

 じゃあどういう風にわれわれは接したらいいか。専門家の立場からいろいろなアドバイスが述べられているが、印象に残ったものをピックアップしておく。

  • とにかく話を聞く(傾聴):カウンセリングの技法だ。下手に助言などせず、とにかく共感を示しながら話を聞く。これがまず第一歩。
  • 自尊心を高める:自殺の危険が高い人は自尊心が不当に低い傾向にあるため、自分の価値に気付かせてあげることが大事だ。
  • あいまいさに耐える能力を高める:自殺を考える人は、思考が短絡的だ。「仕事がうまくいかない→死ぬしかない」などという理屈はおかしいわけだ。「うまくいってる部分もある」「うまくいってなくても休んだり他人に任せたりと他の選択肢がある」「もう少し結果が出るまで待ってみよう」という柔軟で曖昧ともいえる可能性を示したい。
  • われわれもひとりで抱え込まない:自殺の話は、聞かされる方にも大きな精神的負担となる。専門家や家族の助力をあおぐように方向付けることも、自殺を防ぐ有効な手立てだ。
  • アルコールは飲ませない。薬や病院の効果が出るのは少し時間がかかる。

 以上、私も今後こうした人と接する機会には、これらの心がけを忘れずにいようと思う。

 ただそれでも、最初に述べたように、「自殺する人はどうしたってするのだから仕方ない」という言葉には、私は一面の正しさがあると思う。

 自殺予防の観点からいえば、この言葉は間違いとして扱わねばならない。だが、大事な人を自殺で失くした人には、この言葉はいつか「真実」として心に広がってゆくべきだ。そう思わなければ残された人が救われないということが、間違いなくある。

 将来の自殺は「防げる」と思え。だが、過去の自殺は「防げた」と悔やむな。これが鉄則だろう。

[MEMO]------------------------------

*社会学の意識調査では、世界の人々は自分の国こそが世界の中でもかなり深刻な自殺の問題を抱えていると思っているらしい。日本人もそういう傾向があると思うが、実際のところは自殺率は世界で10位前後だ。本書には1980年代のWHOのデータが載っているが、2004年の同じデータを見てもこの順位はだいたい変わらない。

*自殺報道の影響などで後追い自殺が起こる「群発自殺」は、青少年に多い。日本での代表例は、いじめを受けた中学生やアイドル・岡田有希子の自殺後に発生したケースだろう。古くは18世紀末、ゲーテ「若きウェルテルの悩み」の主人公が自殺する描写を真似て、同じ服装と方法で自殺する若者がヨーロッパ各国で多発したという。そのため、群発自殺の別名は「ウェルテル効果」というらしい。

*この2つの事例は、おそらく「マスコミ」という要素でつながっている。後者の「群発自殺」はマスコミの影響がわかりやすいが、おそらく前者の意識調査も、マスコミの声高な自殺報道のあおりを受けているのではないか。

 仮にそうだとすると、自殺を報じる際のマスコミにかかる責任は非常に重いといえる。本書でも指摘されているが、自殺をいたずらに美化したり非難したりしない、自殺方法を詳しく報道しない、などのガイドラインが必要だろう。

*この本は、1999年第1刷発行とやや古い。2006年10月には、自殺問題の深刻化を受けて「自殺対策基本法」が施行されている。これ以後に刊行された本をまた読む必要があるなー、と感じた。

*(2007年9月7日追記)内閣府の世論調査では、「自殺する」と言う人は死なない、と多くの人がやはり思っているようだ。また、自殺には前触れがない、という誤解もはびこっているとの結果も出ている。本書に書かれていたようなアメリカの「自殺予防教育プログラム」は、子どもたちだけでなく、大人がまず受ける必要がありそうだ。

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2007年8月 3日 (金)

恐いものは、恐いのだ―「顔は口ほどに嘘をつく」(第1章~第4章)

 なぜわれわれには、「感情」が備わっているのか?

 この心のはたらきは、もて余すこともあるけど、もし無くなったら毎日がつまらないだろうなと想像できる。人生の様々な出来事を豊かにしてくれるのは、それに付随する、うれしいとか悲しいとかいった感情だ。

 もし感情が生じなくなったら、私はもう映画も小説もマンガも見ないだろう。お金をいくら稼いだところで、食べ物以外に使い道が思い浮かばないに違いない。

 しかし、果たして「感情」はそうやってわれわれを楽しませるために存在しているのだろうか?

顔は口ほどに嘘をつく Book 顔は口ほどに嘘をつく

著者:ポール・エクマン
販売元:河出書房新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 本書は、感情とそれに伴う顔の表情の科学的研究で著名な心理学者ポール・エクマンによって書かれている。大きく分けて、前半は感情の普遍性や生得性についての議論、後半は悲しみや怒りといった個々の感情の引き金や特徴についての解説、という構成になっている。

 なぜ人には感情が備わっているのか、という疑問に答えるのは、前半のパート。感情は、われわれを楽しませるために存在しているのでない(現代ではそれも重要な役割だが)。エクマンは言う。

わたしたちの命を左右する出来事に素早く備えさせるために、感情が進化したという考えは、シンプルだが、核心的なものである。

 そう、感情は体の機能と同じく、進化の過程で人が生き延びるために発達したのだ。たとえば、われわれは何かをうれしいものだと感じたらそれに接近するし、恐いものだと感じたら回避する。すなわち、感情に従うことで、環境の中で適切な行動をとっている場合が多い。それができる個体こそが、長く生き延びられるのだ。

 そうして生き延びてきた個体が何万年もかけて世代交代を繰り返した結果、われわれは今ここで生きている。したがって、心の中には、遠い祖先のそうした感情面での反応のパターンが組み込まれているのだ。それは数十年や数百年で社会環境が急激に変化しようとおいそれと変わるものじゃない。

 このことをよく表すのが、文化の違いを超えた感情の普遍性だ。エクマンは、アメリカ、チリ、アルゼンチン、ブラジル、日本、果ては未開のパプア・ニューギニアでの感情と表情の関係を実証的に調べた。その結果、文化の違いを超えて、感情と顔の表現に共通性があることが明らかになった。このことは、その後世界各国での研究で裏付けられている。

 遠い祖先から少しずつ分かれた人類が、感情という心の機能で互いにつながっているのである。

 この感情の普遍性と密接に関わるのが、感情の生得性だ。われわれの感情で、生まれながらにして決まってる部分ってどの程度あるの?という問題。これに関連して、いつも不思議に思ってたのは、なんで自分はこんなにムシとかって恐く感じるのかなあってことだったんだけど、その理由がよくわかった。

 上に書いたように、われわれの祖先のうち、恐れるべきものを恐れてきた者が、生き残って子孫を作れる確率が高かったと考えられる。で、蛇やクモは危険なため恐れるべきであり、逆に花やきのこはとくに恐れる必要はない。現代人は、もしかしてその頃の感情を引き継いでいるのか?

 これを調べるためにスウェーデンの心理学者がおこなった実験が紹介されている。実験では、参加者に蛇や花などの刺激を見せるのといっしょに電気ショックを与えるようにした。すると彼らは、蛇やクモに対しては一度電気ショックを与えられただけで、その後はショックがなくても恐怖を示すようになった。ところが、花やきのこなどは恐怖を呼び起こすために何度も電気ショックを同時に与える必要があった。蛇やクモは、明らかに「恐がられやすい」のだ。

 だが、この実験がすごいのはそれだけではない。現在の環境の中にある人工的な「恐がられやすい」物体、たとえば銃や電気のコンセントについても調べた結果、これらの物に同様の恐怖を感じさせるためには、花やきのこと同じくらい電気ショックを併用しなければならなかったのだ。つまり、銃やコンセントのように、長い進化の中でごく最近登場したような物体は、たとえ現代において恐い存在だとしても、すばやくそれを恐怖するパターンがわれわれの心に組み込まれていないのである。

 つまりわれわれの中には、遠い祖先のもっていた感情のパターンが脈々と受け継がれているということだ。動物を使った研究では、ネコに会ったことがないネズミでも、初めてネコに会ったときに恐怖を示すとの結果が得られているという。生まれながらにして、恐がるべきものを知っているのである。

 いやー、面白い。そうした生得性とか普遍性とかがあるって言うと、文化とか個性とかを否定するのかって批判されたりもするが(本書にもエクマンのそんな経験が書かれている)、そうじゃないんだよね。だからこそ、人と人は育った環境を超えてわかりあえるのですよ。

 第5章以降は、また後日。

[MEMO]------------------------------

*研究を始めた頃には、エクマン自身、顔の表現が生得的、普遍的なものだとは考えていなかったという。これが興味深い。鉄ちゃん脳のところでも書いたけど…

行動科学で発見されるものは、科学者の期待に添うよりも添わなかったときのほうが信用できる。

そう、そうなのだ。予想と違ったわって正直に書いてある方が信用できるし、多くの場合、われわれの凝り固まった先入観を覆してくれるのだ。

*じゃあ感情における文化の違いはないのかっていうと、そんなこともない。たとえば、大切なものの喪失はすべての文化で悲しみを引き起こす。しかし、「大切なもの」の内容には文化的な相違がみられるという(P69)。

 あるいは、感情をどれだけ表情に出すかも、文化によって異なる。これを感情の表示規則といい、たとえば日本人は嫌悪感などの負の感情を人前で見せることを抑制することがわかっている。日本の社会では、暗黙のうちにそうした「規則」が共有されているのだ。

*感じている感情を支持する情報しか受け入れられないという、不応期(refractory period)の概念は面白いなあ(P94)。

 いったん感情が生じると、おさまりがつかないことはあるよね。たとえば友人が約束を破ったことに腹を立てた後、実は友人にも仕方のない事情があったと知っても、すぐに冷静になれず、しばらく不機嫌が続いたりする。あれって何でかと思ってたのだが、要するに怒りの感情による不応期に入ってて、それに合わない情報はきちんと処理できてなかったと考えると納得がいく。

*顔の表情だけでなく、声の質もまた、感情と対応する。まだ研究は少ないが、しぐさもそうだと考えられる。ただ、これらの感情表出は、コントロールできる程度に差がある。ある感情を感じたとしても、しぐさを抑えるのはいちばん楽だ。次に、顔の表情が制御しやすい。だが、声は(いったん出してしまったら)感情を隠すのは難しいらしい。

 著者は、こうした違いはもしかすると身体を制御するメカニズムと関係しているのかもしれないという。すなわち、われわれは身体の筋肉に対する制御が最も発達している。だが顔面の筋肉はそれに劣るし、発声器官の細かい制御なんて意識的には行えない。

 これが、声や顔に感情が出てしまうという原因なのではないか、という。非言語コミュニケーションでよく知られるメラビアンの研究にもつながる話だ。(メラビアンの研究自体は世間では拡大解釈され過ぎだけど…)

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2007年7月31日 (火)

理想は証言が不要になること?―「証言の心理学」

 「すべらない話」ができるトークの達人に憧れる。理由はふたつある。ひとつは、何かの出来事を語るとき、自分じゃあんなに「面白く」仕立てられないから。もうひとつは、自分じゃあんなに「わかりやすく」仕立てられないから、である。

証言の心理学―記憶を信じる、記憶を疑う (中公新書) 証言の心理学―記憶を信じる、記憶を疑う (中公新書)

著者:高木 光太郎
販売元:中央公論新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 テレビのトークに「わかりやすさ」は絶対不可欠である。「すべらない話」は決して「わからない話」であってはならない。理解してもらえないエピソードで笑いは取れない。

 じゃあどうやって話を「わかりやすく」してるのかというと、それは話し手の「編集」によるのである。「面白さ」を引き出す前提となる「わかりやすさ」を作るために、エピソードの一部を省略したり、時系列を入れ替えたりといった「編集」にタレント・芸人が腐心しているのがテレビを見てるとよくわかる。

 この「編集」の結果、実際に起こったことと話の内容に多少ズレが生じたとしても、笑いが取れればテレビ的にはオッケーである。誰かが「ホンマか~?」というツッコミをしたりするが、本気でその話を疑っているわけではない。あれは「ビックリした~」とほぼ同義のにぎやかしである。

 

 さて本書のテーマは、被告人や目撃者の「証言」である。著者は言う。

証言では語られた記憶が聞き手に素直に受け入れられることはまずない。この点で証言はすでに非日常的な行為である。

 証言に対しては、相手方の陣営などからその信憑性が真剣に問われる。裁判や捜査の行方を大きく左右することもある。そんな状況下で「正確な記憶」を述べねばならない。これは実は相当のプレッシャーである。

 なぜなら、困ったことに、記憶は非常にうつろいやすいからだ。そのことが、本書の冒頭の2章でよく示されている。

 ただ単に、起こったことを忘れるだけなら実害は少ない。だが、記憶は時とともにその内容をゆがめ、事実とかけ離れたものに変容することが多い。ウォーターゲート事件の証人ジョン・ディーンの例を見ると、彼の内部で「常識」と「意味付け」によっていかに記憶が書き換えられたかがわかる。

 さらに、われわれは日常的に、お互いに記憶を補完し合って生活している。著者はこれを「ネットワークする記憶」と呼んでいるが、他者と相互確認を重ねること(共同想起)で自分の記憶は他者の記憶を取り込んで、出所がどんどん不明になっていくものだ。

 こうした記憶の性質が「証言」の場面で顔を出すと、意識的・無意識的な同調や誘導につながる。取調官の発言やマスコミの報道に話を合わせなきゃという心理がはたらいて、証人の記憶が「汚染」されるのだ。証言の信憑性に対する強いプレッシャーにさらされていると、他者からの情報にすがりたくもなるだろう。

 そしてもっともタチが悪いのは、これらの不正確な記憶を、当の本人は正しいものと確信している場合が多いことなのである(正確さと確信度の乖離)

 

 こうして見ると、誰かの記憶を頼りにした「証言」は、「疑い出したらキリがない」ものだとわかる。だから、日常生活やテレビの中では、他人の記憶に基づく話を本気で疑ったりしないという「お約束」がある。

 しかし司法の場では、そんな「お約束」を認めるわけにいかない。不確かな記憶に基づき、誘導の可能性がある「証言」だとしても、それが最重要の証拠となるときもある。ではそれは果たしてどこまで信じられるものなのか?

 本書の後半は、この難問に心理学者たちが取り組み奮闘する様子が書かれている。自分の専門研究を社会の中で役立てようという姿勢に、深い感銘を受ける。

 ただ、これって、「物証」を得るための技術がもっと進歩し、取調べが十分に可視化されれば、あまり問題にならなくなるところなんだよね…。ある人が犯人かどうかの判断は、豊富に「物証」を集めることで精度を上げられるし、証言を取るしかない動機の解明なんかでも、取り調べを監視することで不正を防げる。司法の手続きに「真偽の不確かな証言」が入り込む余地を減らしていくことが、将来的には可能なのだ。

 つまり、司法制度での「証言」をめぐる究極の理想は、「証言の心理学」が無意味となるような制度と技術を作り出すことだ、といえるのではないだろうか。

[MEMO]------------------------------

*最後の一文は、この分野の人たちの頑張りを否定するわけではもちろんないので、悪しからず。あくまで、「理想」は不確実な記憶に頼らずに済むことだと言っているだけで、現実」はまだそれにほど遠いので、心理学者に出来ることはごまんとあると思ってる。

 仲真紀子「認知心理学の新しいかたち」の第一部にも、心理学的アプローチのそうした可能性が示されていた。こちらは、本書でも取り上げられている「クローズド・クエスチョン(閉じた質問)」の問題等を理解するのに役立つ。

朔立木「死亡推定時刻」で描かれた冤罪事件と、本書に登場した実在の事件の間には多くの類似点があった。改めて、司法の限界を思い知らされた感じ。それには日本特有の問題もあるし、人間の根本的な能力の問題もある。

認知心理学の新しいかたち 認知心理学の新しいかたち

著者:仲 真紀子
販売元:誠信書房
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2007年7月25日 (水)

その化学物質を誰が止めるのか―「中国トンデモ食品大全」「中国食品『毒抜き』調理法」(AERA 2007年7月30日号)

 中国産の食品が危険なのは、もはや明らか。今号のAERAの特集「中国トンデモ食品大全」に取り上げられた食品加工の呆れた実態の数々に、今やいちいち驚くのもアホらしくなってる。

 たとえば中国では、発がん性のある着色料・スーダンが、カップ麺やら牛肉やら、挙げ句ケンタッキーフライドチキンの色を良くするために使われている。これは本来は、ワックスなどに使う工業用の着色料らしい。

 同じく発がん性物質のホルムアルデヒドが、ビールの濾過の過程で使用されている。青島ビールは、「大手各社は2、3年前からホルムアルデヒドを使っていない」と日本の取材に答えているそうだ。おいおいそれまでは使ってたのかよ…。

 ローヤルゼリーには、抗生物質のストレプトマイシンが投与されている。これは結核治療に使うような副作用のある物質だ。さらにすごいのは、日本の輸入業者がそれを使わないように要請した後のこと。今度はストレプトマイシンの代わりに、別の抗生物質・クロラムフェニコールが検出されるようになる。これは骨髄への悪影響が指摘されるもっと副作用の強い薬だ。

 これらの例を見てると、ミートホープの件がイキがってる不良高校生レベルの悪事に思えてくるから不思議だ(笑)。

 有害な物質が食べ物に混入することの最大の恐怖は、その摂取を自覚できないということだ。即座に気分が悪くなったりするなら別だが、たいていの物質は体内で少しずつ蓄積して健康を害していく。

 だから、そういう危険性のある物質は、体に入る前のどこかの時点で、「やばいかどうかわからないけどとにかく止める」ことが必要だ。

 でも問題は、「誰がどうやって止めるの?」ってこと。

 中国から日本にやって来る食品に関して、生産者から消費者までのルートを見渡して、法制度で止められそうなポイントが、一個もない。

 中国の食品関係の法制度なんかまったくの未整備状態で、はじめから期待できない。日本の法が及ぶ範囲で、税関、輸入業者、流通、小売のどっかにフィルターをかけて…とか考えても、個別の食品に入ってる化学物質を完全に調べ続けることなんて、現実的に不可能だろう。(中国産ウナギに対し、抗菌剤・マラカイトグリーンが含まれないよう国内の検査体制を厳格化したのに、その後スーパーで売られていたウナギからこの薬剤が検出されたのがいい例だ)

 だとすると、止めるのは結局消費者自身、てことになる。今号のAERAは、続く特集「中国食品『毒抜き』調理法」で、食品の「解毒」の方法についてまとめてくれている。

 詳細は実際に読まれることをおすすめするが、とりあえず野菜はしっかり洗い、素材を加熱することを心がけようと思った。タマネギ、わさび、ビタミンCなどの解毒効果にも期待だ。あと、今日の昼に食べたバナナは、早速頭の部分を捨てた(笑)。

[MEMO]------------------------------

*本質的には、日本産の食品でも、生産者・企業が悪さをしてるっていう可能性は存在する。ただ、法の網が粗くても、各人のモラルが悪事を規制してる部分が、ある程度日本にはあったと思う(ムシのいい思い込みかもしれないけど)。

 だが、(ひと括りにするのは適切ではないだろうが)中国はそうしたモラルに欠ける。本当はそんな相手から仕入れをしなきゃいいのだが、日本も日本で安さ優先・利益優先によるモラルハザードが起き、「危険物」をどんどん招き入れるようになってしまった。

 それでも金持ちはオーガニックで安全なものばかり食べられるかもしれない。一般庶民にはそれはムリだ。つくづく「格差社会」だよなあ…。

*真保裕一「連鎖」は、食品輸入という珍しい題材を扱ったサスペンス。これを読んだときは、輸入や税関に潜む闇に対して、恐ろしさと憤りを感じたものだ。あれから10年以上経って、この現実。少なくともこの間、日本はぜんぜん良くなってないってことがよくわかる。

連鎖 (講談社文庫) 連鎖 (講談社文庫)

著者:真保 裕一
販売元:講談社
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2007年7月24日 (火)

日本の医療は今夜が峠―「大学病院のウラは墓場」

 大学病院こそが、瀕死の病人だ。そしてこのまま放置しておくと、日本の医療全体に悪性腫瘍が広がって、手遅れになりそうだ。

大学病院のウラは墓場―医学部が患者を殺す (幻冬舎新書) 大学病院のウラは墓場―医学部が患者を殺す (幻冬舎新書)

著者:久坂部 羊
販売元:幻冬舎
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 「大学病院に行ったら殺される」とでも宣言するかのような刺激的なタイトルの本書。私自身、大学病院にいる医者たちの権力志向の強さや患者不在の態度を見聞きして、怒りに似た否定的な感情をもっていたので、そんなセンセーショナルな内幕の暴露を期待して読み始めたところがある。

 しかし著者も医者であるためか、大学病院の体質を批判しつつも、そのジレンマについて一定の理解を見せるような記述が多い。そしてかなり説得力がある。最終的には、むしろ末期ガン患者のごとき大学病院の現状に同情の念さえ湧くほどだ。

 しかしこのガン、すでに日本の医療の深部まで転移していると読んだ。本書から3点抜き出すとすれば、以下のようになるだろうか。

【ガンその1】大学病院の「研究重視」「臨床軽視」の風潮

 大学病院では、「未来の患者」を治すための研究ばかり重視され、「目の前の患者」を治す臨床がないがしろにされる傾向にある。医学の複雑化にともない、研究はできるが誤診が多いとか手術はダメとかいった教授が増えてきた。

大学病院の医師たちは、自分たちを「医療者」ではなく「医学者」だと思っているからだ。

【ガンその2】医療事故・ミスに対する、医療訴訟や逮捕のリスクの高まり

 近年、医療事故が起こると医師が患者や家族に訴えられたり、場合によっては警察に逮捕されたりするようになった。確かに単なるミスによる失敗には患者は納得できない。だが、どんな手術にも数パーセントは死亡率があるもので、それが考慮されずに何でも訴訟や刑事事件に持ち込まれるようでは、リスクある高度な治療は避けられ、そんなリスクの高い科(産科や小児科)の医師のなり手がいなくなる。

医療ミスで死ぬ人は減る代わりに、治療を控えられて死ぬ人が増える。

【ガンその3】臨床研修制度の弊害

 従来の研修医制度に代わって導入された臨床研修制度の弊害のうち、最大のものは、研修医が大学病院をどんどん離れてしまうので、医局を維持するために地方病院の医師が大学病院へと引き上げられていることだろう。これで地方医療が崩壊しつつあるのは、昨今の報道の通りだ。よかれと思ってやった制度改革が実はズレていたという、なんとも笑えない話だ。

 

 これらの「ガン」は、医師だけが原因なのではない。医師も深刻な被害者になっている場合もある。世論の過剰反応が医療現場を締め付け、結局は医療の質の低下を招いているケースがあるのだ。

 決定的なのは、高度な技術を身につけたり難しい科を受け持っていたりしても、診療報酬には反映されず高い収入にもつながらないという実態だ。激務に追われてなお報われないのでは、医師のモチベーションも生まれてこないだろう。そうした理由からか、産科、小児科に次いで、外科も志望者が減っているという。

 というわけで、医者も人の子、あまりプレッシャーをかけ過ぎるのは、われわれ患者にとっても決してよい結果にならないと感じた。厳しさだけでなく、寛容さももって、時代に合った医療制度改革を随時おこなっていかないといけない。

 でないと、著者のこの言葉を絵空事と片付けられなくなってしまうだろう。

早く手を打たないと、近い将来、手術とお産は海外でという時代が来るかもしれない。

[MEMO]------------------------------

「壊れた脳 生存する知」にもあった話だが、脳外科医の志望者はどんどん減っている。2006年の調査では、全国80大学のうち23大学で「志望者ゼロ」だったらしい。これから最も重要になる分野のはずなのに、どうすんの。

*まあ正直、大学病院の医局に対しては今でも懐疑的なのだけど、やはり必要悪という面もあったかなあ、とは思う。著者が最後に提案している、大学病院からの「臨床」「教育」の分離というのは、乃木坂太郎・永井明「医龍」で加藤センセイがやろうとしていることと同じなのだろうか。

医龍 13―Team Medical Dragon (13) 医龍 13―Team Medical Dragon (13)

著者:乃木坂 太郎,永井 明
販売元:小学館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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