経済・政治・国際

2008年3月19日 (水)

その道路は未来につながってはいない―「『道路』の暴走」週刊ダイヤモンド2008年3月22日号

 要は、必要なものだけ作ったらいい。道路ってやつは。

 道路特定財源のニュースがにぎわっているが、流用だのなんだのの前に、本当に必要な道路を作るために本当に必要な予算を組むという前提が崩れてるから、おかしくなるのだ。莫大な借金を次世代に残してまで予算規模を維持しようという輩が国のトップにひしめいていることに目まいがする。

 …というところに、今週の週刊ダイヤモンドの特集「『道路』の暴走」は面白かった。

 昔は、道路を作ることが「必要」だったのだ。道路特定財源制度を田中角栄が立法化したとき、日本の道路事情はアメリカの調査団から「貧弱」呼ばわりされていたという。国を成長させるために人や物の流れを円滑にするインフラを整えることは、確かに社会のニーズだったのだ。だから道路利用者の税金を道路整備に優先してまわすこの制度には意義があった。

 でもね。今はもう社会のニーズは変わってるのだ

 これ以上、どこまで道路を引く必要がある?この特集には、仏独英伊の4ヶ国と日本を比較した面白いデータが載っている(P.51)。日本はこの5ヶ国中で最高の道路延長距離と道路投資を有している。日本と比較して国土面積が同程度のドイツや1.5倍のフランスよりも、はるかに長い道路を、はるかに高い金をつぎ込んで作っているわけだ。道路投資でいえば、次に多いフランスの3兆2988億円にダブルスコアの8兆2449億円だ。バ、バリバリだぜ!

 それでも、みんなが道路を使ってたらまだいい。しかし、最新の交通センサスでは、明らかに交通需要は減少している。金食い虫の高速道路も、並行する一般道と比べてガラガラだし、最近開通した高速道路は軒並み大赤字だ(すべてこの特集にデータあり)。トホホである。
 やっぱり、今後はもう本当に必要な道路だけを作るようにすべきでしょう。

 そのためには、新規の道路整備の必要性をきちんと討論する場が必要だ。ところがそういう場はほぼ皆無で、あるのは道路族議員と国交省の役人のお手盛りでシャンシャンと事が運ぶ茶番劇のみなのだ。

 新規の道路の必要性は、費用便益分析で計られる。これは、道路の需要予測をもとにその便益を金額化し、必要な費用を上回るかどうかを判断するものだ。一定程度上回れば、道路作りが決まる。
 ところが、この分析にはいくつものカラクリがある。この特集では、2007年11月に出された「道路の中期計画」でのアヤしい操作が紹介されている。

 たとえば、新規に道路が建設されて走行時間が短縮される場合には、「走行時間短縮便益」を計上できる。これがどのくらいの数値かというと、1時間短縮されたら3771円の利益が出るものとして計算している。その道を走る車のドライバーたちが1時間もらえたら、一人当たり3771円稼げるというわけだ。それどんな危険なバイトの時給?(笑)。勤め人だって時給換算したらそんなにもらえてない人ばかりだよ。
 この金額に「×交通量×年数」で便益を計算するから、「時給」が少しでも違えば、計算結果には膨大な差が出る。3771円ってのは、水増しし過ぎでしょう。

 また、さっき述べた交通需要の問題。人口も減るのだし、将来的には交通需要は漸減して当然だ。事実、2007年3月に出された交通センサスはそうしたデータを示している。
 ところが2007年11月に出された「道路の中期計画」では、これを(おそらく意図的に)無視し、2002年公表の高い需要推計値を使って計算をしている。おまけに、今から30年後~50年後の20年間は、交通需要は低下せず一定と見なすなどと、ありえない仮定をしている。要は、不当に高い交通需要をはじき出しているわけだ。

 さらに、実際に道路を作る際に、その地域の住民へ行う説明もひどい。この特集では個別事例として富山市の高架化の例が紹介されているが、国交省の役人がこうした費用便益分析の結果をちゃんと説明したくない様子がアリアリだ。やたらと高い評価値を口頭で説明しただけで、「事業化したときそのつど変わる可能性があるから」と文書は配布しない。ていうか、あまりにお粗末な分析だから配布できないんでしょ?

 繰り返すが、私は必要な道路は作ったらいいと思う。その必要性を正々堂々と明らかにせよと言ってるだけだ。
 必要性ったって、何もお金に換算できるものだけでなくてもいい。とくに地方の道路に関しては、住民の生活における具体的なニーズまで盛り込んで、要不要を議論したらいいのだ。

 なぜそれをしないのか。できないからじゃないのか?必要性を担保してくれるようなちゃんとした説明が付けられない道路ばかり作ろうとしてるからじゃないのか?
 「そんなことはない、説明しようと思えばできるが、そうした議論は往々にして長期化するので、着工すべき時期に着工できなくなるからやらないのだ」という意見もあるかもしれない。でもそれは、「着工すべき時期」じゃないってことだろう。何百億、何千億もの費用がかかるものを、この財政逼迫の折に、必要性も明らかでないままどんどこ作ろうっていうのは、頭がいかれてる

 道路族議員、国交省の役人、天下り先の法人、高速道路会社とそのファミリー企業、土建屋の、誰も未来を見てない。目先の金しか見てない。最大50兆円にもなろうかという新たな借金を次世代に押し付けることに、罪悪感のカケラもない。そうした上の世代のふるまいを見て、若者や子どもが呆れていることに、恥を感じることもない。

 国土のすみずみまではりめぐらされた道路。それらをほとんど使うことなく、借金にまみれてどんどんと減ってゆく国民。

 まるで滅亡寸前のローマのようだよ。

[MEMO]------------------------------

*片山善博・慶大教授(前鳥取県知事)の「納税者は道路だけを利用して生きているわけではない」(P.42)という言葉がすべてかと。

*道路整備の必要性を訴える議論の中に必ず、公共事業が地元の労働者にもたらす経済効果の話がまぎれているが、こんなのはもうナシですよ。その公共事業をひねり出すために多額の借金をして、結局は税金でそれをまかなうことになる。そうするとまたいろいろ増税が必要になる。国民が自分で使える金は減る。消費は冷える。非正規雇用が増える。

 …一部の土建屋を過剰に潤わすために、なぜみんなで沈んでいかなきゃならないのか?おまけにそこで生まれるものはおよそ必要性に乏しいものなのだ。まったく理解に苦しむ。

*税金はある程度取っていかれたって構わない。それが未来につながるなら。東洋経済2007年1月12日号の特集「北欧はここまでやる」には、高負担の税制の中でも国が成長を遂げ、国民が幸福を感じられる仕組み作りが十分に可能であることが示されていた。

 教育にかかる費用が少なく、雇用は転職支援も充実していて、老後のケアは手厚い。だからかえって可処分所得の中で自由な消費ができる。高齢世代から現役、子ども世代まで、未来に向かってきちんと循環する社会だ。

 もちろん北欧もいいことばかりではないし、国民性の違いもあるので高負担高福祉を日本にすぐに導入すべきとは思わない。ただ、年金、介護、医療、子育て等、どの問題をとっても、日本はうまく税金が使えているように見えない。正確にいえば、問題が起こってから税金の使い道を柔軟に変えるチカラがまったく欠けている。道路問題は、その象徴でしょう。

 それこそ、雇用支援特定財源とか、出産・子育て特定財源とかあってもいいくらいじゃないか?

*(2008.3.19追記)今日の夜のニュースでは、道路事業費が計画段階よりも8兆円も膨らんでいたとの報道も出ていた。なるほど、その手があったか~(苦笑)。はじめに納得できる程度の費用を示しておいて、後でこっそり上積みする。

 NEWS ZEROでは、沖縄の道路で300億円と見積もられていた事業費が、結局1200億円になった例が報じられていた。ぼったくりバーか。芋洗坂係長カモン。

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2008年1月10日 (木)

もう誰も解脱しない―「寺と墓の秘密 誰も知らない巨大ビジネス」週刊ダイヤモンド1月12日号

 これはよい勉強をさせていただきました。長年の疑問に対していくらか悟りを得た気分。スジャータはどこ?

 昔から、宗教者の金儲けに対して、生理的な嫌悪をかなり強くおぼえていた。身近なところでお寺の僧侶なんか、煩悩まみれの話がゴロゴロ転がっているから。高級車を乗り回してゴルフ三昧という近所で評判の道楽僧侶が法要でかしこまって読経するのを、どんな顔で聞けというのか。お酒やおつまみは必ず高級品を百貨店で取り寄せ毎晩飲みあかし…、とか、高級カメラを何台も揃え、檀家に隠れて地下に暗室を作った…とかいった坊さんの話は枚挙にいとまがない。

 資本主義社会の中で、お金を儲けることを否定するんじゃないよ。でも、宗教者であることを楯にとって稼げるくらいに、この人たちは宗教的に立派なのか?といつも思う。だいたい、現世での快楽の追及は、教義に反するんじゃないの?

 そんな怒り混じりの疑問に、実にストレートな解答を与えてくれるのが、今週の週刊ダイヤモンドの特集「寺と墓の秘密 誰も知らない巨大ビジネス」なのだった。似たような思いを持ってる人は買っとくべき。興味深い話がたくさん載っている。

 お寺が所有する不動産からの利益がいかに莫大で(檀家からの収入3000万円、不動産収入3億円!の寺とか)、かつ税制面の優遇が手厚いことか(一見宗教に無関係な不動産利用でも、上手に宗教活動にからめれば全額非課税。営利事業と見なされても、無税・低率課税の範囲が広い)。課税額を一般企業と比較した結果には目を疑う。

 日本では仏教信者が減っているのに僧侶数は増えているらしく、割りを食って檀家が減った田舎寺の僧侶が、都会で読経アルバイトをする話も紹介されているが、その方がいっそ清々しいじゃないですか。宗教者として。

 誌上では、「改革寺の挑戦」と銘打って、経営努力を惜しまないお寺の例が肯定的に紹介されている(P. 36以降)。赤の他人同士が一緒の墓(墓地にあらず)に入る、共同の永代供養墓を新設して2億円を売り上げ、貧乏寺の経営が一気に安定した話とか。温泉を掘って境内に1泊1万円~3万円程度の宿坊を作ってお客を呼び込んでいる話とか。

 これらは、「商売」として見ればなかなかの才覚だけど、やっぱり「宗教」として見るとえげつない。仏教的な功と罪でいったら、罪なしとは到底いえないんじゃないか?(中には、社会福祉法人を設立してケアハウスを運営するような、かなり良さげな例もあるが)

 こうして見ていくと、私にとって納得がいく宗教法人・宗教者とカネの関係は、3つに絞られるように思えてきた。「稼がない」か、「フェアに稼ぐ」か、「稼いだ金を人のために使う」かのどれかだ。

 「稼がない」は、清貧だ。多少貧しくたって、自分の信奉する教義に殉じたらいいじゃないですか。現世であこぎな金稼ぎしてたら、因果はめぐるよ?

 「フェアに稼ぐ」は、公正だ。「宗教法人」という肩書きを濫用しないで、営利事業をやるなら公平にやろうよ、ということだ。

 「稼いだ金を人のために使う」は、慈善だ。金儲けに走らずともたくさんお金が入ってきてしまう(これはこれですごい話ですよ)んだったら、それを貯めこまないで、世のため人のために使ってほしい。上記のケアハウスも有望だし、食べ物に困っている人に炊き出しをしている寺をニュースで見たこともある。

 まあ何にせよ、「他人に偉そうなことを言ってる人の言行不一致がいちばん不愉快」ということですね。本特集を読んで、この気持ちがとくに間違ってなかったことがわかったのは大きな収穫だった。こんな坊さんたちじゃ、誰も解脱するわけないよ。

[MEMO]------------------------------

*京都の古都税紛争では、拝観料から50円ばかり税金を取ろうとしたら、有力寺院が軒並み拝観停止をやって課税の拒否に成功したからなあ。宗教法人の営利事業に対する課税率をもう少し引き上げたらいいとは思うけど、どんだけ実現困難か想像もつかない。

*金儲けについては新興宗教がらみの方がもっと生臭いと思うが、不愉快さの構造が伝統仏教とちょっと違ってくるので、割愛。

*週刊ダイヤモンドの特集には、「墓」編もあって、霊園開発や墓石販売のアヤしい話が面白い。ちょっと前に「週刊オリラジ経済白書」で石材店が取り上げられているのをたまたま見たのだが、ビックリするくらい売り上げがあったからね。「会社経営と表記された高額所得者を追っていったら、門前石材店の店主が意外に多かった」(P. 46)という話も、さもありなんと思った。

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2007年8月 8日 (水)

あほな…の連発必至―「輸入食品の真実」

 むかし、週刊金曜日の「買ってはいけない」をめぐって正しいの正しくないのと大騒ぎが繰り広げられたのを見てるので、私は基本的にこうした告発本は「構えて読む」ことを心がけてる。

 だが、AERAの特集だけでなく、週刊朝日やら婦人公論やら、各所で輸入食品(とくに中国産)の危険性が報じられているものの、反論は今のところ目にしない。

 やっぱり危険なのか?どのくらい危険なのか?

食品のカラクリ6 輸入食品の真実!! (別冊宝島 1458) 食品のカラクリ6 輸入食品の真実!! (別冊宝島 1458)

著者:小倉正行
販売元:宝島社
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 輸入食品に対するそんな疑問にわかりやすく答えてくれるのがこの本だ。農産物、水産物から加工品にいたる様々な食品に関して、輸入事情と、危険物質をめぐる事件、さらに検査体制が紹介されている。たまたま書店で見かけて買ったのだが掘り出し物だった

 本書で発せられる警告は主に3つある。輸入食品の検査体制の不備と、原料原産地表示の不徹底、そして食料自給率の低さである。とりわけ、輸入食品検査のずさんな実態はたいへん驚きで、勉強になった。

 なんといっても、輸入食品に対する検査率が極端に低いことが衝撃的。2005年は、輸入届け出件数のうち、わずか10.2%しか検査されておらず、残り90%近くは無検査で流通しているという。

 しかも、国が主体となって行う検査(行政検査)のやり方がすごい。輸入された食品からサンプルをとった後、残りが市場に流れるのは一切止めずに、並行して検査をやるのだ(モニタリング検査という)。だから、その検査で危険物質が出てきても、すでに誰かが買って口にしてるということになる。

 あ、あほな…。きっと、トンデモない物質が検出されたけど、もう食べちゃった人に説明できないから、責任逃れで闇に葬られた検査結果とかあるんだろうなあ…(←懐疑主義)。

 こういう穴だらけの検査体制が原因で、最近また流行りつつあるO157による食中毒なんかも起きている。2001年に210名近くが感染した食中毒事件では、厚労省がひき肉についてしか検査しておらず、それ以外の輸入牛肉に潜んでいたO157が原因になったとみられる。(さらに、この後汚染された牛肉を摘発してからの厚労省の対応は、怒りを通り越して笑えるくらいヒドいので、ぜひ77ページをご覧ください)

 また、細菌よりさらに小さいウィルスに関しては、なんとびっくり、ノーチェックなのだそうだ。昨年猛威をふるったノロウィルスは、カキやはまぐりといった二枚貝に蓄積されることが多い。2001年に行われた研究によれば、中国、韓国、北朝鮮産の二枚貝81件のうち、12件からノロウィルスが検出されたという。道理で…(むかしカキを食べた夜に死にかけたことがある)。

 ウィルスは種類が多いから検査が難しいのか?それにしてもノロウィルスだけでも検査したらいいのに…と思う。ところが、ここで紹介される厚労省の担当者の言葉がまたすさまじい。もしノロウィルス検査を実施したら、輸入魚介類がほとんどすべて輸入できなくなるとの危惧がある、と。つまり、安全よりもまず輸入、ということよね。あ、あほな…(本日二度目)。

 輸入食品の検査体制は、残留農薬についてポジティブ・リスト制を導入し、一律基準で厳しく違反を網にかけるなど、進展している面もあるようだ。だが総じて、国民の「食の安全」を守るというより、輸入業者や食品会社といった「業界の利益」を守ろうという態度が透けて見えてしまう。

 なんといっても、国の輸入食品の検査を実際に行う食品衛生監視員は、2007年現在で全国に332人しかいないというのだ。これでも、1990年の99人からだいぶ増えてはいるが、輸入量がそれ以上に激増しているので、こんな人手不足じゃまったく追いつかないということだろう。

 この本では、監視員を3000人体制にすれば、検査率を7割まで引き上げられるとしている。今の10倍じゃん、この公務員削減のご時世に…とか思うが、しかし、これにかかる費用は年間300億程度だと。じゃあやろう。社保庁の莫大なムダを削ってこっちに持ってこよう!(笑)

 つくづく、国のため社会のためと言いながら、その実自分たちの周りのせまいせまいエリアの利益を優先して、そのためには国民をないがしろにしても構わない、という体質だよね。いい加減、こっちのモラルも吹っ飛ぶわー身捨つるほどの祖国はありや、ですよホント。

[MEMO]------------------------------

*まあしかし、BSE問題もしっかり片付いてないうちから牛肉輸入の全面的再開をアメリカが要求してきたり、そんなアメリカが危険性のある中国製品を輸入禁止にしたら中国がアメリカ産の輸入品を規制して反撃したり、国際関係の中で食の安全を確保しようとしても一筋縄ではいかないところがあるよなあ。

 結局これが、日本の食料自給率の低さから生まれる悲哀なんだよなあ。他国の機嫌をなるべく損ねないように、顔色をうかがいながらの事後処理に終始するという。

*ただ、輸入偏重の食糧事情の背景は現代の「飽食」にあるとか言われるけど、色々な食べ物を巧みに取り込み同化させる日本食の文化としての性質上、世界各地の食材を輸入することは否定されるべきではないと思う。

 問題は、安さこそ正義という感覚に下支えされた、「安価な飽食」がはびこっていることだろう。自分自身にもこれはあるからあまり大きなことは言えないけど、消費者がこの感覚を少しでも減らせば、とにかく安い外国産物を輸入しようという動きも減るはず。明らかに割高なコンビニが隆盛するわけだから、安さ以外の正義が認められる可能性だってあると思う。加えて原料原産地表示を徹底したら、日本の農業が広く儲かる時代が再びやっては来ないだろうか。

 二ノ宮知子「GREEN」とか、星里もちる「本気のしるし」とかには、「都市部から農への流れ」の可能性が描かれている。もっと農業を儲かるものにして、都会でくすぶってる若者に政策としてそういう道を示せないか、とか夢想するんだけど。

GREEN―農家のヨメになりたい (1) GREEN―農家のヨメになりたい (1)

著者:二ノ宮 知子
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本気のしるし (2) (ビッグコミックス) 本気のしるし (2) (ビッグコミックス)

著者:星里 もちる
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2007年7月30日 (月)

積み立てたモラルを返せ―「日本をニヒリズムに陥らせた社会保険庁スキャンダル」(中央公論 2007年8月号)

 あーもう年金ってどうしようもないな。

 …と、若者は思っていることだろう。払わずに済むならそうしたいというのが正直な気持ちではないだろうか。

 中央公論最新号の巻頭特集は、「老後破綻社会 ―消えた年金、失われる介護」。この特集全体で示されているのは、「自分の老後は自分で面倒みなきゃいけない」という、「晩年の自己責任」のカタチだ。貧しい老後・介護の悲惨さの片鱗は現代でもすでにうかがわれているが、この先はもっと過酷なことになるだろう。

 中でも、東大教授の松原隆一郎による評論「日本をニヒリズムに陥らせた社会保険庁スキャンダル」は、題名にある呆れた事件に象徴される「美しい国」のこれからに、現役世代や若者が抱くどうしようもない絶望感をよく説明してくれていると思う。

 2004年の年金制度改革まで、厚生省は「年金は将来の自分への保険」として説明していた。ところが、後先考えない大盤振る舞いのツケもあって原資が不足し、現役世代の保険料を支払いにあてざるをえなくなってくる。しまいには、「年金は若者が高齢者を支える社会制度」という賦課方式であることを厚生省が認めてしまった。

 こうなると、自分が年金をもらえる頃には若者の数が圧倒的に不足するであろう、いまの現役世代には、「取られ損」という不公平感が渦巻くことになる。

 しかしそれでも、年金制度は決定的には崩壊しなかった。それを支えていたのは何か。私は、国民のモラルに他ならないと思う。

 平均的な日本人は、給料から天引きされる保険料に対し、崩壊寸前とはいえ年金は国の制度だからと不承不承でも納得してきた。これは、社会で定められた義務は果たそうという規範意識のなせる業であったと思う。

 ところがそこに、5000万件という途方もない数にのぼる今回の年金記録漏れ事件だ。この事件によって、ただでさえ倦んでいた年金に対する国民の認識がさらに悪化したことを、本稿では指摘している。

どのような高邁な理念を持つにせよ、そもそもそれを維持・運営する公的組織を私たち日本人は持てないのではないか、と疑われるようになってしまったのである。

 そう、そうなのだ。私の周りにも、「年金未納者」に大きな怒りを示していた善意の人がいた。それが今回の事件によってもうすっかり意気消沈してしまっている。きちんと保険料を払っても、正当な年金をもらえないかもしれない。きちんと払ってなかった人が、うまうまとおこぼれにあずかれるかもしれない。

 これは、年金制度を支えていた最後の砦「モラル」が吹っ飛ぶ瞬間である。

 

 本稿はこうした顛末を、社会制度に対する国民の幻想という観点から実にうまく説明してくれている。まったく同感と感じ入ったので、やや長いが引用する。

どんな社会制度もしっかり機能させるには、社会について国民がなんらかの幻想を共有しなければならない。ある個人が選挙に行ったからといって、実際の選挙結果が一票とどうつながっているのかというと、数学的には無視しうる影響しかない。…それでも投票するというのは、選挙に参加することで「個人と社会がつながっている」という幻想が得られるからだ。

 これは素朴な「共同体幻想」のようなもので、社会をつくる意識的基盤として無視できないものだろう。

…つながりの幻想を国民に植えつけることが職務であるはずの公的機関が、自分の仕事を放棄していたのである。これは個人の人生が社会と関わりないということを世に知らしめ、社会を無意味化させるという意味で、画期的な事件というべきだろう。

 ほんと、事は年金制度だけにとどまらず、善意の人の心を粉々にしたという点で、この事件はヒドく画期的であるなあ、と思うのだ。

 そうやって国民のモラルが吹っ飛んだというのに、それに全然気づかずただボケっと立っていた安倍政権が、爆風にあおられて今回の参院選で大敗を喫したというのも、至極当然のことであったろう。

 まったく、モラルのない「美しい国」が、どこにあるっていうのか。

[MEMO]------------------------------

「中国トンデモ食品」のところでも触れたけど、日本人のモラルハザードは決して年寄りの世迷い言でなくて、いろんなスキャンダルの奥底で確かに起きていることだと思う。それは、時代とともにモラルの内容が「変化」した、といえる範囲を超えていて、共同体幻想を木っ端微塵にしかねないような著しい「劣化」だと思う。

 まあ起きてしまったことはしゃーないので、問題はそうした「劣化」をどう食い止めるか、だけど。

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2007年7月25日 (水)

その化学物質を誰が止めるのか―「中国トンデモ食品大全」「中国食品『毒抜き』調理法」(AERA 2007年7月30日号)

 中国産の食品が危険なのは、もはや明らか。今号のAERAの特集「中国トンデモ食品大全」に取り上げられた食品加工の呆れた実態の数々に、今やいちいち驚くのもアホらしくなってる。

 たとえば中国では、発がん性のある着色料・スーダンが、カップ麺やら牛肉やら、挙げ句ケンタッキーフライドチキンの色を良くするために使われている。これは本来は、ワックスなどに使う工業用の着色料らしい。

 同じく発がん性物質のホルムアルデヒドが、ビールの濾過の過程で使用されている。青島ビールは、「大手各社は2、3年前からホルムアルデヒドを使っていない」と日本の取材に答えているそうだ。おいおいそれまでは使ってたのかよ…。

 ローヤルゼリーには、抗生物質のストレプトマイシンが投与されている。これは結核治療に使うような副作用のある物質だ。さらにすごいのは、日本の輸入業者がそれを使わないように要請した後のこと。今度はストレプトマイシンの代わりに、別の抗生物質・クロラムフェニコールが検出されるようになる。これは骨髄への悪影響が指摘されるもっと副作用の強い薬だ。

 これらの例を見てると、ミートホープの件がイキがってる不良高校生レベルの悪事に思えてくるから不思議だ(笑)。

 有害な物質が食べ物に混入することの最大の恐怖は、その摂取を自覚できないということだ。即座に気分が悪くなったりするなら別だが、たいていの物質は体内で少しずつ蓄積して健康を害していく。

 だから、そういう危険性のある物質は、体に入る前のどこかの時点で、「やばいかどうかわからないけどとにかく止める」ことが必要だ。

 でも問題は、「誰がどうやって止めるの?」ってこと。

 中国から日本にやって来る食品に関して、生産者から消費者までのルートを見渡して、法制度で止められそうなポイントが、一個もない。

 中国の食品関係の法制度なんかまったくの未整備状態で、はじめから期待できない。日本の法が及ぶ範囲で、税関、輸入業者、流通、小売のどっかにフィルターをかけて…とか考えても、個別の食品に入ってる化学物質を完全に調べ続けることなんて、現実的に不可能だろう。(中国産ウナギに対し、抗菌剤・マラカイトグリーンが含まれないよう国内の検査体制を厳格化したのに、その後スーパーで売られていたウナギからこの薬剤が検出されたのがいい例だ)

 だとすると、止めるのは結局消費者自身、てことになる。今号のAERAは、続く特集「中国食品『毒抜き』調理法」で、食品の「解毒」の方法についてまとめてくれている。

 詳細は実際に読まれることをおすすめするが、とりあえず野菜はしっかり洗い、素材を加熱することを心がけようと思った。タマネギ、わさび、ビタミンCなどの解毒効果にも期待だ。あと、今日の昼に食べたバナナは、早速頭の部分を捨てた(笑)。

[MEMO]------------------------------

*本質的には、日本産の食品でも、生産者・企業が悪さをしてるっていう可能性は存在する。ただ、法の網が粗くても、各人のモラルが悪事を規制してる部分が、ある程度日本にはあったと思う(ムシのいい思い込みかもしれないけど)。

 だが、(ひと括りにするのは適切ではないだろうが)中国はそうしたモラルに欠ける。本当はそんな相手から仕入れをしなきゃいいのだが、日本も日本で安さ優先・利益優先によるモラルハザードが起き、「危険物」をどんどん招き入れるようになってしまった。

 それでも金持ちはオーガニックで安全なものばかり食べられるかもしれない。一般庶民にはそれはムリだ。つくづく「格差社会」だよなあ…。

*真保裕一「連鎖」は、食品輸入という珍しい題材を扱ったサスペンス。これを読んだときは、輸入や税関に潜む闇に対して、恐ろしさと憤りを感じたものだ。あれから10年以上経って、この現実。少なくともこの間、日本はぜんぜん良くなってないってことがよくわかる。

連鎖 (講談社文庫) 連鎖 (講談社文庫)

著者:真保 裕一
販売元:講談社
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2007年7月21日 (土)

僕たちも、戦争に手を貸している―「となり町戦争」

 世の不条理は、物語の種。恋愛もそう、戦争もそう。それに加えて、行政とか公務員も、実に不条理な存在なのだった!

 これを読めば、戦争の意味に思いをはせ、公務員を見る目が変わる(?)、そんな異色の傑作。

となり町戦争 となり町戦争

著者:三崎 亜記
販売元:集英社
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 このブログには雑多な本の感想を置いてあるが、大きく分けるとノンフィクションかフィクションかということになる。なんで本を読むのかと問われれば「楽しいから」とまず答えるが、もうちょっと気の利いたことを付け加えるなら、ノンフィクションは主に知性を育てるために読み、フィクションは主に感情を育てるために読んでいる。

 だから、マンガや小説なんかには、自分にとって「未知なるもの」を示して、思い切り感情を揺さぶって欲しいと思っている。

 で、この「となり町戦争」は、その希望を存分にかなえてくれた。戦争は日常と地続きであること、それはいつか突然起こるというより今もずっと起きているのだということを、町の公共事業として開始される戦争に参加することになった主人公の「現実感」と「非現実感」を描写することで、見事に表現している。この「戦争」の平板さと空虚さに、得体の知れぬ不安を感じる。

 だがそれよりも私の感情を突き動かしたのは、「香西さん」との海辺の逢瀬を描いた終章だ。あくまで公務員として忠実に戦争業務を遂行した「香西さん」が、戦争の終結後、主人公と職務を離れて会う。

 この場面では、それまで抑制的だった描写が一変する。非常に濃厚かつ緻密に二人の「心と体」が描かれる。

「これが、戦争なんだね」

僕は香西さんを抱いたまま波打ち際に横たわり、そうつぶやいた。仰ぎ見た空には月が光っていた。冷徹に、慈悲なき姿で。

「これが戦争なんです……」

 きっと戦争で失われるのは、そうしたものなのだ。

[MEMO]------------------------------

*この作品、映画化されるらしい。本の帯を見て、言いたいことがひとつだけある。香西さん」は原田知世じゃないだろう!(笑)まあ実際見たらハマってるのかもしれないですが。

 ちなみに私の中では、ずっと中田有紀さんのイメージでした(なぜか「さん」付け)。わかってくれる人は結構いると信じてる(笑)。

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2007年7月16日 (月)

ある意味、結果より過程が大事―「データの罠」

 世論調査や社会調査は、いい加減なものばかりだ(断言)。客観的な根拠のない空論に振り回されるのはご免だが、一見まともそうなデータがその実まったく信用ならないというのはもっと厄介である。

 本書は、そうした世間で行われている調査に潜むさまざまな欠陥を指摘するものだ。

データの罠―世論はこうしてつくられる データの罠―世論はこうしてつくられる

著者:田村 秀
販売元:集英社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 類書に、谷岡一郎「『社会調査』のウソ」がある。谷岡氏の本は、ちょっといい店で食べるコース料理のようなもので、問題だらけの社会調査の具体例と、そうした調査が実施される際の実態、および、適正な調査を行う上で注意すべきバイアスを順序よく並べてくれている。フルコースを堪能するには、読むほうもそれなりの気構えで臨む必要がある。

 一方、本書は、居酒屋で食べる一品料理のような感じで、とにかくいろいろな調査やデータの疑問点がどんどん出てくる。こちらは、肩肘張らずにつまみ食いしていくのがいい。それこそ、飲み屋話にもってこいかもしれない。

 なにせ扱われる話題が、「ライブドアのインターネット調査」「餃子消費日本一などの家計調査」「視聴率」「選挙の出口調査」「都市ランキング」「英語力の国別比較」など、どれもパッと目を引くものばかり。どんな調査の結果も大なり小なり問題を抱えていることを意識するのに、このメジャーな題材たちはうってつけだ。

 言葉は悪いが、何かの調査結果の数字「だけ」を見ていろいろ論じるのは、「悪人」「馬鹿」かのどっちかだろう。違いは、「悪人」はその数字をぜんぜん信じていないのだが、さも信じているフリをして「馬鹿」をだまそうとすることだ。

「官庁が使うコンサルタントは『いかようにも結果を出します』と豪語している。事業を正当化したい官庁と、受注が欲しいコンサルタントによる茶番に過ぎない」

 そういう「悪人」たちにだまされる「馬鹿」にならないようにしないといけない。それでなくても、現代人は数字で示されるデータに過剰な信仰を寄せてしまう。調査結果を見るときは、その「方法」まで吟味して、信憑性を自分で判断しておく必要がある。

 …と、ついつい好きな番組の視聴率に一喜一憂する私は自戒するのだった(笑)。

「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ

著者:谷岡 一郎
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2007年6月21日 (木)

すべてはメジャーに―「Number 681号 “PRIDE後”の世界」

 ウラを知りすぎると、オモテを純粋に楽しめなくなる。スポーツやショーについて事前に耳に入れてもいい裏話の範囲って、私の場合、かなり限られてる。

Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2007年 7/5号 [雑誌] Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2007年 7/5号 [雑誌]

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 2006年にフジテレビが突然PRIDEの中継を中止すると発表した。以後、私のようなライトな格闘技ファンは、PRIDEはほとんど視界から消え、K-1まで含めたあらゆる格闘技興行が勢いを失ってしまった印象を受けていたのではないかと思う。少なくとも、総合格闘技に関しては一般人気の盛り下がりは顕著だ。

 その辺どうなんだろうと思い、現状を知るために、プロデューサー側に取材した記事が載っているNumber最新号を買った。興行の舞台裏って、たいていその筋のハナシになるので普段はあまりのぞきたくないのだけど、Numberならいろんな意味で大丈夫かなと思って(笑)。

 結論としては、確かにフジテレビの放映中止がPRIDEに与えた影響は絶大だったが、それ以上に、「格闘技のメジャー」としてアメリカのUFCがモンスター化し、今や世界中の格闘家を呑み込んでしまっているんだな、とわかった。名だたる格闘家がどんどんアメリカに集結している。ミルコは2006年末からUFCに行ったし、ノゲイラもUFCと契約してしまったのね。

 おまけに、UFCがK-1 HERO'Sの選手を引き抜こうとしたら対抗手段はあるか、の問いに答えて、K-1プロデューサー谷川貞治もこの言葉。

結論からいうと、いまはないですね。ファイトマネーという意味では。とどめる方法はないです。

 おお、これでは今後外国人選手をつなぎとめるのは難しいよなあ、K-1。まさに、日本のプロ野球選手がメジャーリーグを目指すのと同じ構図がそこにある。金があり、人気があるから、トップレベルの選手が集まり、また金と人気が集まる。

 どこかがこの循環に入ったら、同業他社は非常に厳しい。すぐには太刀打ちできない。それが今、日本のライト格闘技ファンの目の前に横たわる現実ってことね…。

[MEMO]------------------------------

*そんな「格闘技のメジャー」UFCがPRIDEを買収したのは、興行の維持とコンテンツの充実という点で良いことなのでは?日本発のイベントであることへの“PRIDE”は抜きにして。UFCがアメリカで成功した一因に挙げられている、格闘家の練習・日常をつぶさに追いかけるリアルタイムドキュメント番組は、日本でもスカパーあたりで企画されたらいいのに、と思う。すぽると!の一コーナーくらいじゃムーブメントは起きないよ…。

*ミルコはひとつ負けたけど、ノゲイラやヒョードルが新しいリングでどれだけやれるのかは楽しみ。問題は、それが簡単に見られなくなることだが…。

*世界格闘地図・年表と、格闘家番付(労作)は助かる。番付は、呼出のメンツが笑える。村上ショージって、なんで入ってるの?(笑)

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