芸能・アイドル

2008年3月14日 (金)

まさか一度きりの恋の相手があの人とは―「芸妓峰子の花いくさ ほんまの恋はいっぺんどす」

 5歳で親元を離れて祇園の置屋に暮らし、10歳で跡取りとして置屋の養女となる。15歳で舞妓になると、またたく間に祇園で売り上げナンバーワンにのし上がる。先輩たちの「いけず」にも負けず、各界の一流人にひいきされながら、ナンバーワンの座に6年間座り続ける。

 そんな花柳界の伝説が、自らの半生と祇園の成り立ちをつづった自伝だ。

芸妓峰子の花いくさ―ほんまの恋はいっぺんどす (講談社プラスアルファ文庫) 芸妓峰子の花いくさ―ほんまの恋はいっぺんどす (講談社プラスアルファ文庫)

著者:岩崎 峰子
販売元:講談社
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 最初に断っておくと、私自身はいわゆる「夜遊び」は苦手なタチなので、そういうところにジャブジャブ金をつぎ込む人の気持ちにはどうしても理解できない部分があるのだが、それはそれとしてその世界には興味がある

 いわゆる「京都の祇園」とは、正式には「祇園甲部」という花柳界である。桃山、江戸の時代から現代に続く歴史をもつ。明治時代には「祇園甲部女子職業訓練会社」という財団が設立され、お茶屋組合や芸妓組合が加わって、「祇園」を運営するようになった。著者によればこの財団は以下の目的をもっていた。

女性の職業としての芸を芸術と認め、「芸は売っても身は売らぬ」の精神を貫き、それを糧にした自立、地位の向上を目指したもの

 なるほどなあ。立派な「職業婦人」をめざしているわけだ。

 こうした日本の伝統芸術を守り抜くという姿勢が、他の花柳界との違いであり、祇園の舞妓、芸妓のプライドを高めていると著者は述べている。第二次大戦後は、「学校法人 八坂女紅場学園」を設立し、教科として舞や邦楽の稽古を提供し、新しい人材を育成しているという。

 本書の冒頭でこうした予備知識を得た後で、幼い「政子」が祇園に入っていくところから語りが始まる。彼女は祇園ととくに血縁もない家に11人兄弟の末娘として生まれたのが、祇園の芸妓置屋の跡取りにと懇願されて引き取られたという身の上である。

 踊りが好きな子だったというのが救いだが、両親は決して養子に出したかったわけではなかったのにそのようなことになったいきさつには、いろいろと事情があるにせよやはり切ないものがある。

 その後、まず舞妓になるまでに紆余曲折がある。不本意な理由で名前を「峰子」に改名させられたり、思わぬ血縁者が登場したり。とくに、置屋に出入りできる男性は限られている(力仕事の男衆、菩提寺の住職、呉服屋、集金の丁稚、仕出し料理屋のみ)のに、それを破って同居した男の子がもたらした災難は、その後ずっと峰子を苦しめることになる。

 舞妓になってからもこれまた波瀾万丈だ。人気が出るにつれて、持ち物を隠されたり座敷で意地悪をされたり、先輩たちからの「いけず」がエスカレートする。夜道で襲われたりすることもある。それらに負けないタフさがあってこその、売り上げナンバーワンなのだ。

 その一方で、祇園を訪れる著名人との交流は実に華やかだ。まず舞妓デビューして初めてのお座敷で相手をしたのが、エリア・カザンである。チャールズ皇太子や湯川秀樹に物申したりする様子もたいした肝っ玉だ。夏はごひいき筋が軽井沢に行くので自分も出張するらしいが、そこで出てくる名前が佐藤栄作、池田隼人、岸信介などである。これなんんて倉科遼?(笑)

 そんな著名人との交流の中でも、いちばんびっくりしたのが、「ほんまの恋はいっぺんどす」のお相手・利夫さん(本名)である。途中に出てくるツーショット写真で気づかなかった私がうかつなのだけど、最後にはじめて芸名が出てきたときには本当に声を上げて驚いてしまった(笑)。

 峰子に気に入ってもらうために三年間毎日お座敷に通うやら、「どうしても(妻が)離婚してくれないんだ」とわんわん泣いてその勢いで峰子と初めて結ばれたりやらしてた男は、あの人か…。ということは、「どうしても離婚しなかった妻」って、あの人か…。

 芸能事情に詳しい人には周知の事実なのかもしれないけど、私は初めて知って衝撃を受けました。

 最終的に峰子は置屋を継がず、祇園を出る。その後の結婚のいきさつや、最終章の利夫さんとの交流に、私は「女の業」を感じた。著者はいま作家としても成功して、祇園甲部の設立目的にあったように立派に「自立」しているわけだが、私はその消えぬ「女の業」のあり方に、むしろ「職業婦人」の本質を見る思いがした

[MEMO]------------------------------

*初めて知ったことが多すぎて本文には全部は入れ込めなかった。その中からいくつか。

*祇園甲部の「舞」は京舞井上流を流儀とし、他の花柳界が歌舞伎の「踊り」を基礎としているのとは異なっている。舞は神に奉納するものであるが、踊りは一般庶民が楽しむものである。したがって、昭和天皇が初めて歌舞伎を見たのは、「人間宣言」をしてからである。

*置屋は一人前の舞妓、芸妓を育てるために長い年月とお金をかける。そのお金は、舞妓が置屋から年季奉公の契約をして前借するもので、舞妓になったら6、7年かけて住み込みで返済するというシステムである。年季奉公が済むと、置屋を出て自立しなくてはならない。これを「自前」という。

*舞妓や芸妓はお茶屋でお客の相手をし、お茶屋は彼女たちのお花代を計算して紙券に書き、翌朝玄関脇の小箱に入れる。それらは祇園甲部芸妓取扱所というところで集計され、それに基づいておよそひと月ごとにお茶屋は置屋にお花代の支払いをする。またお客には後日請求書が届き、最近では支払いは銀行振り込みでするようになっている。ちなみに、お茶屋はお客によって掛け軸などの調度を高価なものに変えたりするので、舞妓や芸妓は部屋に入った瞬間にそのお座敷の「格」を判断できる目を備えなくてはならない。

*代々祇園通いをするような良い家の子息は、京都の大学に来た場合には、真っ先にお茶屋に紹介され、そこでお燗番のアルバイトをすることが多い。これは、そうした場所でプロの仕事を知り、舞妓や芸妓と馴染みになっておくことが、自分が将来社会に出てお座敷に上がれるような立場になったときに役立つと考えられているからである。

*本作は、昨年、井上真央主演で2時間ドラマになっていた。そのときすでに原作を読んでドラマを見たのだが、展開が性急・説明不足で正直あんまりな出来だった。そして、やっぱりというかしょうがないというか、利夫さんの正体についてはひと言も触れられてなかった。その後、奥さんの方は祇園を舞台にした昼ドラで、よりにもよって置屋の役をやってたけど、いったいどういう気分だったのか。別れても武志さんとの仕事を続けるマイラバのAKKOなみの執念。これも「女の業」かもしれない。

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2007年9月20日 (木)

男は恋に恋焦がれて吉原へ―「吉原手引草」

 いやはや面白い。直木賞の名に恥じない。この作者の引き出しは深いなあ。

吉原手引草 吉原手引草

著者:松井 今朝子
販売元:幻冬舎
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 同じ作者の作品で、先に「仲蔵狂乱」を読み、この後「辰巳屋疑獄」も読んだ。それらは、ひとりの人間の生涯を軸に、史実をまるで見て来たかのように活写する作品だった。ひとりの生涯を追うということは、物語上の時の流れも自然と速くなる。次々と事件が起きては終結し、「時代劇版ジェットコースタードラマ」とでも言うべき面白さがあった。

 それに対して、本作。こちらの時の流れはほぼ止まっている。江戸の吉原で栄華を極めた花魁・葛城。彼女をめぐって起きた「事件」について、その周囲にいた関係者から話を聞き出して、薄皮を剥ぐように少しずつ全貌を明らかにしてゆくという物語だ。地の文はなく、すべて談話のテキストだけで書かれているという、凝った趣向のミステリだ。

 また、吉原に行ったことのない男がどう登楼して花魁と馴染みになってゆけばいいのか、初手からわかるように構成されている。ちょっとずつ吉原の仕組みを知り、「事件」の重大さがわかってくるという寸法だ。締めもぴったり「腑に落ちる」。実にうまい。

 それにしても、廓遊びはたいへんだね。何をするにも金が入り用。容姿や風情も粋じゃなけりゃ花魁に好いてもらえない。おまけに、引く時は引き、押す時は押すという駆け引きの腕まで必要だ。つまりは、男の全存在が試される。

 それで思ったのは、「これって現代の普通の恋愛だよね」ということ。現代で一般の女性と恋愛しようと思ったら、真実、このくらいはたいへんなわけです(笑)。「吉原」という響きから、現代のホステス遊びと似たようなイメージがあったが、案外普通の恋愛の方が近いのではないだろうか。

 考えてみると、江戸の頃は、武家や商家なら家のためになる結婚が強制されるし、一般の町人なら周囲が世話して若い男女を娶わせるのが普通だった。押しなべて、自由恋愛が今よりも起こりにくい世の中だったといえる。

 それだから、現代人だったら世間でやれるような、惚れた腫れたの男女の駆け引きをしたくて、男はわざわざ吉原に行ったのではないか。お金を払ってまでそんなたいへんな思いをするなんて、と思うけど、そういう欲求を満たし得ない時代を現代人の私は体験的に知らないから、そんな風に思うのかもしれない。

 最後に。この作品は、「仲蔵狂乱」や「辰巳屋疑獄」といった史実物と比べ、(面白さはそれぞれにあるけれど)技術点は一等高い。直木賞を獲ったことにまったく文句はない。

 だけど、北村薫「玻璃の天」はそんなに落ちるかなあ。まあファンの繰り言ではありますが、何だかまた残念になってきた(笑)。

[MEMO]------------------------------

*花魁をひとり身請けするのって、本当にたいへんなお金がかかるものだね。村上もとか「JIN」の花魁・野風のように、身請けが破談になっても円満に廓を出られるなんて、普通じゃおよそあり得ないことのようだ。

 花魁が廓から勝手に抜けることは決して許されない。「吉原手引草」には、客と駆け落ちを計画してばれた花魁は、素っ裸で梯子に縛られ、尻や背中の肉が裂けるほど青竹で繰り返し打ちすえられるとあった。

駆け落ちを失敗(しくじ)ったら、こうしてとことん痛い目に遭わせて、それがいかに割に合わないかをまわりに思い知らせるんですよ。ああ、たしかに仰言えす通り、それでも駆け落ちしようとする者はあとを絶ちませんがねえ。

 だがそれでも駆け落ちするときはするのだ。そこに女の業が見える。と同時に、こうした環境の中だからこそ、本作の「事件」の顛末が、いっそう清々しいものに感じられるのである。

JIN―仁 (第1巻) JIN―仁 (第1巻)

著者:村上 もとか,酒井 シヅ,富田 泰彦,大庭 邦彦
販売元:集英社
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