司法・法律

2008年3月10日 (月)

人は人を殺すことに耐えられるか―「手を汚すことなく「存置」「廃止」を叫んでいるあなたへ」論座2008年3月号

 人が他人の生命を奪う行為を許さないのが、われわれの社会を成り立たせている法の原則だ。しかし同時にわれわれの社会には、死刑という制度が存在する。それは、一定の要件が満たされれば「国家」が人の生命を奪うことを容認する制度だ。「国だけが人を殺すことがある」というのが日本の法が決めた枠組みである、

 でも、国というのはお化けのようにふわふわと勝手に活動してくれるものではない。様々な制度を実際に動かすためには、人が現実的に関わらなくてはならない。その意味で、死刑という制度もまた、やはり「人が人を殺す」仕組みなわけである。

論座 2008年 03月号 [雑誌]
Book
論座 2008年 03月号 [雑誌]
販売元 朝日新聞社出版局
定価(税込) ¥ 780

 そんな当たり前のことに今更ながらはっとさせられた。論座2008年3月号の坂本敏夫「手を汚すことなく「存置」「廃止」を叫んでいるあなたへ 元刑務官からの報告」を読んでのことである。

 これは、死刑がどのように執行されているのかについて、ある死刑囚への死刑執行命令が下ってから、死刑が執行された後の処置までを丹念に書いたものである。追いつめられた死刑囚の心理もさることながら、執行に関わる刑務官へとかかる大きな心理的負担がなんとも痛ましい

 印象的な事実がいくつかあった。たとえば、死刑囚が最後に立つ刑壇の床を開く(これで死刑囚は落下し絞首される)ためのボタンは複数存在する。

刑壇を下方に開き、死刑囚を地下室に落とすための電動ボタンが5個ある。そのうち一つを刑壇と接続させる。…

何番をつないだのかは、永遠の秘密だ。

 誰の押したボタンによって死刑が執行されたのか、本人たちにはわからないようにする配慮である。

 また、死刑執行当日、死刑囚を何も知らせずに舎房から連れ出さなくてはならない。これから死刑になると悟られては何が起こるか分からないため、普段の毎日とさも何も変わらないように「騙す」のである。当然その役目は、ずっとその死刑囚の処遇を担当した刑務官が負う。

 刑務官は、死刑執行を待つ何年もの間、死におびえる死刑囚が正気を失わないように親身になってカウンセリングを何度も繰り返すそうだ。そうして自分を信頼してくれるようになった死刑囚を、その刑務官は最後の最後の場面で「騙す」のだ。

 これは…なんという苦痛だろうか。実際に、良心の呵責に耐えかねて精神に変調をきたし、辞職した刑務官もいるという。

 普通の人は、人を殺したという事実に耐えられない。それが電動ボタンを押すという直接的行為であっても、騙して処刑場に連れていくという間接的行為であっても、「人殺し」に荷担したという事実が精神を蝕む。

 だから死刑を残すべきとも廃止すべきとも、ここでは言えない。死刑執行が刑務官にとって酷なことになっているということと、死刑制度の可否は、本質的には別の問題である。

 しかし、現在の死刑執行方法が、科学文明を謳歌する先進国家にふさわしいものなのか、そのことに関しては深く深く疑問が残った。

[MEMO]------------------------------

*この論座の死刑特集は、浜井浩一「死刑という「情緒」の前に データで見る日本社会の実情」も、死刑の予防効果を考える上でとても興味深かった。

 この中で、アメリカの学者が、統計上、死刑には抑止効果よりも殺人を助長する効果の方がはるかに大きいという分析を示したとか書かれていた。これはどういう分析なのかな。文中の別の箇所には、英米の犯罪学会においては、他の要因を統計的にコントロールすることが困難なので、死刑の犯罪抑止効果は科学的に確認できないとされているとあるのだが、それなら、抑止効果がないことを確認するのも難しそうなのだが。

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2007年9月 8日 (土)

心理面から見た絶望的「冤罪システム」―「『うそ』を見抜く心理学」

 タイトルから、他人が嘘をついているときにどう見破るか的な本を思い浮かべるが、さにあらず。刑事事件の取調べの中で語られる嘘を暴くのが本書の内容だ。

 しかもその嘘は、犯人が自分を守ろうとしてつく「さもしい嘘」ではない。無実の人間が長く過酷な取調べにさらされ、無力感に打ちひしがれて、やってもいない罪を認めるという「かなしい嘘」がテーマである。

「うそ」を見抜く心理学―「供述の世界」から (NHKブックス)
Book
「うそ」を見抜く心理学―「供述の世界」から (NHKブックス)
著者 浜田 寿美男
販売元 日本放送出版協会
定価(税込) ¥ 1,124

 これはすなわち、冤罪の場面である。本書は、そこに必ず付きまとう「かなしい嘘」がなぜ生まれてしまうのかについて、取調べをする側とされる側の心理を鋭く分析したものだ。

 単に理屈を述べるだけでなく、豊富な事件例をもとに説明がなされるので、非常に具体的でわかりやすい。というか、怖い。まるで蟻地獄のように無実の人間を引きずり込んでいく「冤罪システム」が。

 無実の人が裁判を経て有罪になるなんてのは、普通に考えれば不自然なことだ。その不自然さには、大きく分けて2種類あると思う。

 ひとつは、「無実の人間が罪を認めて自白するのはおかしい」ということ。やってないなら認めなきゃいいじゃん、と。被告人がいったん犯行を認める自白をしたが、その後否認に転じたという報道をたまに目にする。そのとき、「じゃあなんで一度認めたの?」「ほんとはやってるから自白したんじゃないの?」という疑問が浮かぶ人も多いと思うが、それはこの不自然さを感じていることの裏返しだろう。

 もうひとつは、「無実の人間がすべての証拠や動機について矛盾なく説明できるのはおかしい」ということ。やってないんだから犯行内容も正確に知らないはずで、自白しようもないじゃん、と。もし変な自白が取られたとしても、裁判には被告人の味方である弁護士や、中立の立場で判断する裁判官もいるんだから、どっかで矛盾を見つけられるはずでしょ、というのが普通の感覚だと思う。

 しかしどちらの不自然さも、「冤罪システム」の中では特におかしいことではなくなる。

 前者の「なぜ自白するのか」については、まず、過酷な取り調べが被疑者を精神的に追い詰める。しかも、それに抵抗して否認を続けると、ひどい目にあうのである。

否認をつづけるかぎり、小さな事件でも身柄は外に出られないまま、起訴に持ち込まれ、保釈はつかず、裁判でも実刑を受ける確率は高くなる。大きい事件では情状酌量の余地なしとして、それだけで刑が重くなる。無実であっても、結果的には自白している方が有利だと言わねばならない状況が現実にあるのである。

 さらに、実際の犯罪者と違って、無実の人間には特殊な心理がはたらく。ちょっと長いけど出色なので全文引用する。

自分は問題とされている犯罪をやってもいないのに逮捕され、厳しい取り調べを受けている。そのこと自体が非現実的なことである。ここで自白をすれば有罪にされて刑罰を受けるかもしれない、死刑になるかもしれないということは、理屈ではわかっても、それを現実感をもって受けとめることができない。…だからこそ、ここでたとえ自白しても、自分はやっていないから裁判所でちゃんと言えばわかってくれるはずだ、とも思う。自分はやっていないという確信のゆえに、かえって自白への抵抗感は弱くなる。

 かくして無実の者は自白するのである。

 だが、上の引用にもあるように、最終的に裁判官が無実とわかってくれればいいのだ。もうひとつの不自然さ、「無実の人間が犯行を説明するときの矛盾」が裁判の中で明らかになれば救われるのである。

 しかし、ことはそう簡単ではない。警察、検察は裁判を有罪に持ち込むために抜かりなく準備をする。犯行内容をよくわかっていない(おそらく)無実の人間を取調官が手取り足取り導きながら、いかにして破綻のないストーリーを作っていくのかが、本書の実例でよくわかる。

 そうした、いわば「でっち上げ」を、裁判官は見抜けないのか?

 もちろん、見抜くときもある。でも、見抜けないときもある。その原因は、裁判の場でしばしば証拠採用の決め手となっている、「臨場感」のワナである。真実の体験者でなければとうてい述べえないような臨場感がある、という理由で自白供述の信用性が認定されたりするのだ。だが、取調べの中でみんなで知恵を出しあえば、そんな臨場感はいくらでも作り出せる。

 しかも、裁判官の人の子だ。誰にでもはたらく、ある心性を止められない。これを指摘したのもまた本書の白眉だと思う。それは、「臨場しようという構え」である。

 人は、自分で体験していないことを、言葉として受け取ってその場にいるかのように想像をめぐらすことができる。できる、というよりも、そうしようと常に待ち構えている。直接体験できないことも、臨場して味わうことによって、深く理解することができるからである。

(話の聞き手は)体験の当事者でないために、それを理解しようと、多分に想像力を働かす。そうして臨場感あふれる描写にしばしば乗せられ、話し手と同じように空間的、時間的パースペクティブを越えて、語られている現場についつい臨場してしまう。

 裁判官が自白の臨場感を見誤るときとき、その裏にはこうした万人共通の心性が影響していると思われる。

 …ということで、無実の者でもとにかく捕まえて来て、根負けさせて自白に追い込み、臨場感のある供述をでっち上げて起訴し、裁判官をうまく欺けば、有罪判決いっちょう上がりという、これが「冤罪システム」である。

 もちろん、こんなことはあってはならない。例外的な事例だ。だが本来、例外としてもあってはならないことなのだ。

 狭山事件、帝銀事件、甲山事件、袴田事件…。本書で取り上げられた数々の事件での供述作りの杜撰さと、その後の成り行きのむごさを見て、その思いを強くした。

[MEMO]------------------------------

*最近報道された冤罪事件では、富山で再審が始まった強姦事件もひどい。こっちの記事では、無実の人間から調書をでっち上げていく様子がよくわかる。

 このエントリでは、取調官がなぜそんな理不尽に及ぶのかは書かなかった。それは、本書にそうした記述が少なかったからだ(それでも、前に紹介した「証言の心理学」よりは言及があった)。そこに踏み込むとややもすれば俗っぽくなりすぎるので、この手の本では扱わないのかもしれない。

 そういうときは、フィクションを見るのもいい。朔立木「死亡推定時刻」は、虚偽の自白が作られる過程と、そこに関わる取調官の内面を知るのに、非常に有用な小説である。

*冤罪を疑われる事件の代表例である袴田事件については、1審を担当した元裁判官が「無罪の心証があった」と異例の告白をしている。

 本書によれば、確定死刑囚として獄中に40年近くとどまる袴田巌氏は、いま精神をおかされているという。もし本当に彼が無実なら(本書を読んだ限りでは、私はそうした印象をもつが)、何度も審理を繰り返しながら彼を牢獄に送り、今なおその中に閉じ込めている日本の裁判制度とはいったい何なのかと思う。

*精神鑑定で不起訴になったり責任能力なしと判断されたりすることに対し、世間の不満が高まってきている印象がある。だいたい、あれってどこまで確かなモンなの?という根本的な疑問もあるだろう。

 そういった向きは、本書193~196ページを一読されることをおすすめする。鑑定人の想像力が縦横無尽にかけめぐり、思い込みに満ちた結論が吐き出されることがあるという、よい見本である。これは果たして例外なのか、それとも…?

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2007年7月31日 (火)

理想は証言が不要になること?―「証言の心理学」

 「すべらない話」ができるトークの達人に憧れる。理由はふたつある。ひとつは、何かの出来事を語るとき、自分じゃあんなに「面白く」仕立てられないから。もうひとつは、自分じゃあんなに「わかりやすく」仕立てられないから、である。

証言の心理学―記憶を信じる、記憶を疑う (中公新書) 証言の心理学―記憶を信じる、記憶を疑う (中公新書)

著者:高木 光太郎
販売元:中央公論新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 テレビのトークに「わかりやすさ」は絶対不可欠である。「すべらない話」は決して「わからない話」であってはならない。理解してもらえないエピソードで笑いは取れない。

 じゃあどうやって話を「わかりやすく」してるのかというと、それは話し手の「編集」によるのである。「面白さ」を引き出す前提となる「わかりやすさ」を作るために、エピソードの一部を省略したり、時系列を入れ替えたりといった「編集」にタレント・芸人が腐心しているのがテレビを見てるとよくわかる。

 この「編集」の結果、実際に起こったことと話の内容に多少ズレが生じたとしても、笑いが取れればテレビ的にはオッケーである。誰かが「ホンマか~?」というツッコミをしたりするが、本気でその話を疑っているわけではない。あれは「ビックリした~」とほぼ同義のにぎやかしである。

 

 さて本書のテーマは、被告人や目撃者の「証言」である。著者は言う。

証言では語られた記憶が聞き手に素直に受け入れられることはまずない。この点で証言はすでに非日常的な行為である。

 証言に対しては、相手方の陣営などからその信憑性が真剣に問われる。裁判や捜査の行方を大きく左右することもある。そんな状況下で「正確な記憶」を述べねばならない。これは実は相当のプレッシャーである。

 なぜなら、困ったことに、記憶は非常にうつろいやすいからだ。そのことが、本書の冒頭の2章でよく示されている。

 ただ単に、起こったことを忘れるだけなら実害は少ない。だが、記憶は時とともにその内容をゆがめ、事実とかけ離れたものに変容することが多い。ウォーターゲート事件の証人ジョン・ディーンの例を見ると、彼の内部で「常識」と「意味付け」によっていかに記憶が書き換えられたかがわかる。

 さらに、われわれは日常的に、お互いに記憶を補完し合って生活している。著者はこれを「ネットワークする記憶」と呼んでいるが、他者と相互確認を重ねること(共同想起)で自分の記憶は他者の記憶を取り込んで、出所がどんどん不明になっていくものだ。

 こうした記憶の性質が「証言」の場面で顔を出すと、意識的・無意識的な同調や誘導につながる。取調官の発言やマスコミの報道に話を合わせなきゃという心理がはたらいて、証人の記憶が「汚染」されるのだ。証言の信憑性に対する強いプレッシャーにさらされていると、他者からの情報にすがりたくもなるだろう。

 そしてもっともタチが悪いのは、これらの不正確な記憶を、当の本人は正しいものと確信している場合が多いことなのである(正確さと確信度の乖離)

 

 こうして見ると、誰かの記憶を頼りにした「証言」は、「疑い出したらキリがない」ものだとわかる。だから、日常生活やテレビの中では、他人の記憶に基づく話を本気で疑ったりしないという「お約束」がある。

 しかし司法の場では、そんな「お約束」を認めるわけにいかない。不確かな記憶に基づき、誘導の可能性がある「証言」だとしても、それが最重要の証拠となるときもある。ではそれは果たしてどこまで信じられるものなのか?

 本書の後半は、この難問に心理学者たちが取り組み奮闘する様子が書かれている。自分の専門研究を社会の中で役立てようという姿勢に、深い感銘を受ける。

 ただ、これって、「物証」を得るための技術がもっと進歩し、取調べが十分に可視化されれば、あまり問題にならなくなるところなんだよね…。ある人が犯人かどうかの判断は、豊富に「物証」を集めることで精度を上げられるし、証言を取るしかない動機の解明なんかでも、取り調べを監視することで不正を防げる。司法の手続きに「真偽の不確かな証言」が入り込む余地を減らしていくことが、将来的には可能なのだ。

 つまり、司法制度での「証言」をめぐる究極の理想は、「証言の心理学」が無意味となるような制度と技術を作り出すことだ、といえるのではないだろうか。

[MEMO]------------------------------

*最後の一文は、この分野の人たちの頑張りを否定するわけではもちろんないので、悪しからず。あくまで、「理想」は不確実な記憶に頼らずに済むことだと言っているだけで、現実」はまだそれにほど遠いので、心理学者に出来ることはごまんとあると思ってる。

 仲真紀子「認知心理学の新しいかたち」の第一部にも、心理学的アプローチのそうした可能性が示されていた。こちらは、本書でも取り上げられている「クローズド・クエスチョン(閉じた質問)」の問題等を理解するのに役立つ。

朔立木「死亡推定時刻」で描かれた冤罪事件と、本書に登場した実在の事件の間には多くの類似点があった。改めて、司法の限界を思い知らされた感じ。それには日本特有の問題もあるし、人間の根本的な能力の問題もある。

認知心理学の新しいかたち 認知心理学の新しいかたち

著者:仲 真紀子
販売元:誠信書房
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2007年6月28日 (木)

楽しさの裏面には悲しさが―「裁判官の爆笑お言葉集」

 この本には、二面性がある。CDみたいにA面B面があるとしたら、A面は「楽しい裁判官の素顔」であり、B面は「悲しき犯罪カタログ」だ。

裁判官の爆笑お言葉集 裁判官の爆笑お言葉集

著者:長嶺 超輝
販売元:幻冬舎
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 裁判官も人の子なわけで、厳格に法律論をふりかざすだけでなく、法廷で情を訴えたり、お茶目な表現をしたりもする。それが訴訟の円滑な進行、被告人の更生、家族への救いなどにつながるなら、積極的にそういう人間的な部分を見せるべきだと思う。

 「犬のうんこ」「無期懲役でも仕方がないよね」「変態を通り越して、ど変態だ」など、ちょっと法廷に似つかわしくない言葉が出てくるところは、読んでいて素直に面白い。

 しかし、そんなに気楽にばっかり読んでてもいけないと思うんですよ。

 この本に並んでいる裁判で扱われているのは、銃の乱射、強盗殺人、放火、違法薬物、児童虐待などなど。これは紛れもなく現代日本の悲しき犯罪カタログだ。オウムや池田小事件、毒物カレー事件をはじめとして、マスコミで大きく取り上げられたものも多い。

 そんな報道の熱は、瞬間的に冷めるものだ。この本では、断片的ながらもそうした事件の「その後」に触れることができる。裁判官が被告人にかける率直な言葉を通して、裁判が終わるまで(あるいは終わった後も)事件は真に終わりを迎えるわけではない、ということが改めてわかる。

 また、「盗人にも三分の理」ではないが、被告人に思わず同情したくなる事件もある。とくに、認知症の母へのつらい自宅介護の果てに、心中未遂を犯した事件(P126)には泣かされた。そこでの裁判官の言葉が以下。

本件で裁かれているのは被告人だけではなく、介護保険や生活保護行政の在り方も問われている。こうして事件に発展した以上は、どう対応すべきだったかを、行政の関係者は考えなおす余地がある。

 いま裁判官がいいこと言った!!こうした「やむをえない」事件の背後には確実に、政策、行政、経済、すなわち社会の歪みがある。この「犯罪カタログ」は、いまの社会にそうした決して見過ごすことのできない現実があることも教えてくれるのだ。

[MEMO]------------------------------

*でも基本的にはやっぱり、楽しいA面が強調される本だと思われる。裁判にもこんな人間味があったりするのだなー、と感心したり笑えたりする、いわば「白い舞台裏」だ。でも、刑事裁判には朔立木「死亡推定時刻」に描かれたような冤罪があったりするし、民事裁判には、知ったら絶望するような裏話がごろごろしてる。これはいわば「黒い舞台裏」だ。

 民事裁判の「黒い舞台裏」を見るなら、山口宏・副島隆彦「裁判の秘密」がおすすめ。むかし宝島社文庫で読んだのだが、洋泉社で復刊したみたい。これ読むと、裁判になったら、もうダメだな」というあきらめの気持ちが芽生えます(笑)

Book 裁判の秘密

著者:山口 宏,副島 隆彦
販売元:洋泉社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2007年6月25日 (月)

誰もが突然「犯罪者」になる―「死亡推定時刻」

 「誤認逮捕は時の運」 - とは、むかしのギャグマンガ(安永航一郎「県立地球防衛軍」だったと思う)に書いてあった言葉なのだが、恐ろしいほどの名言だと思う。いやほんとに。

死亡推定時刻 死亡推定時刻

著者:朔立木
販売元:光文社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 読者は、まったくの無実の罪でひとりの青年が捕えられ、厳しい取調べを受けて裁判にかけられていく様をまざまざと見せられる。青年は、素行に問題があるものの、ただ小心で頭が回らないだけだ。これは無罪とされなきゃいかんでしょう。読者はみな、そんな気持ちでページをめくり続けるはずだ。

 しかし、現在の司法制度とそこに関わる人々は、彼を死刑台に向かってどんどん押し上げてゆく。自己保身のためだけに事実をねじ曲げる警察官僚。先入観で暴走する取調官。矛盾する結果も平気で出してくる鑑定医。依頼者が払える報酬額しか頭にない弁護士。事件の詳細をろくに確認しようともしない検事。そして、裁判を手早くたたむことばかり考えている裁判官。

 この世に「正義」はないのか!…と怒り出したくなることうけ合い。寝る前なんかに読み出したら、先が気になるのと憤懣やる方ないので、読み終えるまで絶対寝られない。あくまで小説、フィクションなのだが、解説の栗本薫は、この本の事件っていつ頃起こったんだっけと、ついつい思い出そうとしてしまうと書いている。私もほんとそうでした。そのくらい圧倒的なリアリティがある。

 

 何が正しいか、正しくないのかは非常に曖昧になって、相対主義の極地みたいな時代だが、犯してもいない罪で死刑になることを止めるのは、最低限果たされるべき「正義」じゃないか?警察も検察も裁判所も、そりゃ忙しくてたいへんのは重々承知だが、せめて、せめて、それくらいの仕事は…。

 青年を救うために奔走する「正義の弁護士」の努力がどんな実を結ぶのかは、自分で確かめてみてほしい。冤罪は、他人事ではない。「誤認逮捕は時の運」 - この言葉を、もう笑えない。

[MEMO]------------------------------

*2007年2月、鹿児島の選挙違反をめぐる裁判(志布志事件)で無罪判決が出たのは記憶に新しい。昨今、無罪判決が増えてきているような印象をなんとなく受ける。この本を読むと、「ああ、今までもたくさん冤罪事件はあったのだろうな」と思わされる。

 でも、作者あとがきにもあるように、もし一般人としてこの事件の報道に触れたら、きっとこの青年を犯人だと思ってしまうだろう。そのことがまた背筋を寒くさせる。

*アマゾンの書影を見たら、この本、ドラマ化されてたのね。知らなかった。

死亡推定時刻 死亡推定時刻

著者:朔立木
販売元:光文社
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